メインコンテンツへスキップ

静は、書斎の埃をかぶったノートパソコンを開いた。起動した画面の光が、血の気のない彼女の顔を青白く照らし出す。 腕の痛みを無視し、彼女の指がキーボードの上を滑る。空白のドキュメントを開き、ファイル名の欄に、一文字ずつ、確かめるように打ち込んでいった。 『離婚協議書』 一文字を打つたびに、過去の一部を切り離していくような鈍い痛みが胸を走る。しかし、彼女の眼差しは、打てば打つほどに澄み渡っていった。 彼女は条項を書き連ねていく。 財産分与――彼女は何も望まない。永野家から与えられたものは、全てそのまま返す。指輪も、ドレスも、この豪華なマンションさえも。 子供――彼らの間に子供はいなかった。それが、唯一の幸いだった。 彼女のタイピングは速かった。まるで、これらの条項を、心の中で何百回となく反芻してきたかのようだった。 協議書の草稿を書き終えると、彼女はファイルを保存した。ファイル名は『新生』。 次に、彼女は別の暗号化されたフォルダを開いた。中には、彼女がペンネーム『霧山』として書き溜めた、数々の脚本のプロットや、未完成の作品が眠っていた。 それらの見慣れた物語を目にした時、彼女の瞳に再び光が灯った。これこそが、彼女の人生そのものだった。翔馬との結婚によって、奪われた夢だった。 彼女は、自身の代理人である井上浩二(いのうえこうじ)に、短いメッセージを送った。 『井上さん、以前保留にしていたプロジェクトの件ですが、再始動させたいと考えています。明日、お時間をいただくことは可能でしょうか?』 かつて、翔馬が彼女の仕事を快く思わなかったため、彼女は多くのチャンスを断ってきた。その結果、井上との関係も疎遠になっていた。 もう一度ゼロから始めることが、どれほど困難かは分かっている。だが、今の彼女には、失うものは何もなかった。 送信完了の表示を確認し、彼女はパソコンを閉じた。全身の力が抜けていくような疲労感があったが、精神は、かつてないほど軽やかだった。 シャワーを浴びよう、と彼女は思った。昨夜の火事の煙の匂いを洗い流し、この三年間の結婚生活でこびりついた心の埃も、全て洗い流してしまおう。 バスルームに入り、腕の傷を庇いながら、熱い湯を出す。立ち込める湯気が、張り詰めていた神経を少しずつ解きほぐしていく。 目を閉じると、翔馬と紀美の姿が脳裏に浮かび、胃の奥がせり上がってくるような感覚に襲われた。彼女は頭を振り、その映像を追い出す。今は、未来の計画だけに集中するのだ。 シャワーを終え、バスローブを羽織ってバスルームから出た。体は温まり、気分も少し上向いていた。 しかし、その時だった。湯気で湿っていた床に、足を取られた。 「あっ!」 短い悲鳴が口から漏れる。体はバランスを失い、後ろによろけた。 咄嗟に壁に手をつこうとしたが、その動きが火傷の傷に響き、脳天を貫くような激痛が走った。 硬い床に体を打ち付ける、その瞬間を覚悟した。 だが、予期していた衝撃は訪れなかった。 代わりに、一対の力強い腕が、彼女の体をふわりと、しかし確実に受け止めていた。 驚きで心臓が跳ね上がる中、ふわりと鼻孔をくすぐる、よく知った香り。落ち着きのあるウッディな香りに混じる、微かな煙草の匂い。 彼女は、はっと目を見開いた。 視界に飛び込んできたのは、見慣れすぎた、整いすぎた、端正な顔。 永野翔馬。 彼が、いつの間に帰宅したのか。仕立ての良いスーツを完璧に着こなし、眉間に深い皺を寄せながら、彼女を見下ろしている。 彼の視線が、彼女の泣き腫らした顔から、バスローブ一枚の体へ、そして最後に、ガーゼが巻かれた腕へと、探るように移動した。 空気が、凍りついた。 見つめ合う二人の間で、時間が止まる。 一人は驚愕に、もう一人は冷たい探究心に満ちた目で。 避けることのできない対決の幕が、彼女にとって最も無防備で、最も惨めな瞬間に、突然、切って落とされた。

現在読めるのはここまでです。

読み進めると物語が続きます。

続きを読む

章一覧

全30章

  1. 第1章第1章
  2. 第2章第2章
  3. 第3章第3章

新着