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第2章
離婚協議書の条項は、凛にとってあまりにも屈辱的だった。財産分与の欄には、申し訳程度の慰謝料が記されているだけで、事実上の净身出户(全てを失って去ること)を意味していた。 凛は暁の顔を見ず、ただ静かに尋ねた。 「明日の午前九時。区役所でいい?」 彼女のあまりの潔さに、暁は苛立ちを覚えた。冷たく「ああ」とだけ応じる。 凛はもう何も言わなかった。ペンを握り、協議書の末尾に『鷹司 凛』と署名した。力を込めすぎたせいで、筆跡が微かに震えている。 サインの済んだ書類を暁の方へ押しやり、彼女は立ち上がった。その動作に、一片の未練も感じられない。 暁は、彼女の決然とした背中を見つめ、心の中に理由のわからない怒りが込み上げてくるのを感じた。泣き叫び、彼に縋り付くとばかり思っていた。 凛は自室に戻り、ドアを閉めた。背中をドアに預けた瞬間、全身の力が抜け、ずるずるとその場に座り込んだ。 携帯を開くと、一件の未読メッセージがあった。差出人は、彼女の恩師であり、国際的に著名な医学教授だった。 『凛、英国でのプロジェクトにまだ一つ空きがある。いつでも来なさい』 恩師からのそのメッセージは、つい三日前に届いていた。あの時は、暁と離れるわけにはいかないと、即座に断ろうと思っていた。しかし今、それは彼女にとって、この絶望の海に浮かぶ唯一の救命ボートのように思えた。彼女は、この三年間何も学んでいなかったわけではない――彼のために料理をしながらも、こっそりと医学の勉強を続けていたのだ。恩師は彼女の努力を認め、チャンスを用意してくれていた。 その短い文章が、暗闇に閉ざされた凛の世界に差し込んだ一筋の光のように思えた。彼女は震える指で返信する。 『先生。明日、航空券を取ります』 一睡もできなかった。翌朝、凛は割れるような頭痛と全身の熱っぽさで目を覚ました。熱は39度を超えている。 それでも彼女は、ふらつく身体に鞭打ってベッドから出た。解熱剤を水で流し込み、病的な顔色を隠すために薄く化粧を施し、きちんとした服に着替える。 これが、彼女に残された最後のプライドだった。敗者の姿で、この家を去るわけにはいかない。 凛はスーツケースを引き、階下へ降りた。別荘にいる誰にも、別れの挨拶はしなかった。 タクシーを拾い、区役所へ向かう。約束の時間の少し前に着き、入り口で冷たい風に吹かれながら待った。 九時が過ぎ、九時半になり、十時を回っても、伊藤暁は現れなかった。 高熱で身体が悲鳴を上げ、視界が滲み始める。だが、心はそれとは対照的に、どんどん冷えていった。 携帯を取り出し、暁の番号をタップする。 長い呼び出し音の後、ようやく繋がった電話の向こうから、彼の不機嫌そうな声が聞こえた。 「何だ?」 凛は怒りを押し殺し、努めて平静な声で尋ねた。 「九時に区役所で手続きをする約束だったはずだけど?」 電話の向こうから、冷酷な声が返ってきた。 「靜が急に体調を崩した。今、病院にいる。離婚の件は、また後日だ」 その時だった。電話の奥から、小林靜のか細い声がはっきりと聞こえてきた。 「暁さん、お医者様はただの低血糖だって。心配しないで……」 凛は、その声の艶やかさに、すべてを悟った。低血糖で入院する人間が、あんなに甘ややかな声を出すはずがない。それは、わざと聞かせるための声だった。つまり、小林靜は自分が電話していることを知っていて、暁にわざとそう言わせているのだ。この構図は、何度も繰り返されてきた。彼女はいつも、最後に笑う側だった。そして今、その笑い声が、電話越しに凛の耳に届いているようだった。 凛は全てを悟った。これもまた、口実。小林靜のためなら、彼は何度でも自分との約束を反故にする。 最後の情けも、この瞬間、完全に断ち切られた。 凛は、受話器に向かって、一言一言、区切るように言った。 「伊藤暁。私たち、これで終わりよ」 彼の返事を待たず、通話を切り、彼の番号を着信拒否に設定した。 そして、携帯からSIMカードを取り出すと、二つに折り、道端のゴミ箱に投げ捨てた。 心が死ぬと同時に、不思議な解放感を覚えていた。絶望の淵の中で、彼女はチケットを買っておいてよかったと思った。今となっては、それが何よりも正しい決断だったと思える。 彼女はくるりと背を向け、スーツケースを引き、来た道とは反対の方向へ歩き出した。目指すは、空港。 高熱で意識は朦朧としていたが、その足取りは驚くほどしっかりとしていた。 さようなら、伊藤暁。 さようなら、この屈辱に満ちた結婚生活。 これからの鷹司凛は、自分自身のためだけに生きる。
章一覧
全70章
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