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第1章
小林静は、手作りの保温弁当箱を胸に抱きしめ、地下駐車場のひんやりとした空気を吸い込んだ。六年付き合った婚約者の藤井拓海を驚かせるため、彼の好きな料理をわざわざ会社まで届けに来たのだ。 彼の愛車である黒のセダンが見える。 静は微笑みながら車に近づいた。 だが、数メートル手前で足が止まる。 薄暗い照明の中、車の窓が怪しく曇っている。そして、微かに揺れていることに気づいた。 心臓が嫌な音を立てて脈打つ。 静は息を殺し、一歩ずつ車ににじり寄った。 「んっ……あっ、拓海……もっと……」 聞き慣れた甘ったるい声。 車のわずかな隙間から漏れ聞こえる喘ぎ声に、静の全身の血が凍りついた。 弁当箱を握る手に力が入り、指の関節が白くなる。 震える足で運転席の窓を覗き込む。 そこには、乱れたシャツの拓海と、彼に跨るようにして体を揺する女の姿があった。 女が陶酔したように顔を上げる。 親友の沢村千夕の顔だった。 頭の中で、何かが断ち切れる音がした。 腕から力が抜け、大切に抱えていた弁当箱がコンクリートの床に滑り落ちる。 ガシャン。 鈍い金属音が響き、車内の二人がびくりと体を震わせた。 拓海が慌てて千夕を突き放し、窓の外にいる静と目が合った。 彼の顔が、恐怖と絶望に歪む。 静は、拓海が慌ててズボンを引き上げる滑稽な姿を、ただ無表情に見つめていた。 胃の中身が逆流し、喉元までせり上がってくる。 吐き気と共に、猛烈な怒りがこみ上げた。 静は踵を返し、駐車場の出口に向かって走り出した。 「静、待ってくれ!」 拓海がドアを開けて追いかけようとするが、千夕がその腕を掴んで引き留める。 その一瞬の隙に、静は駐車場のスロープを駆け上がり、地上に出た。 一台のタクシーが、まるで待っていたかのように目の前に停まる。 静は後部座席に転がり込み、運転手に行き先を告げた。 「新宿。歌舞伎町まで」 ドアが閉まり、車が走り出す。 その瞬間、堪えていた涙が堰を切ったように溢れ出した。 窓の外で、色とりどりのネオンが涙で滲んで流れていく。 静は震える手でスマートフォンを取り出した。三十分前、千夕から送られてきた「静、今頃拓海くんとラブラブかな?」という偽善的なメッセージが目に入る。裏切りと怒りで、腹の底が煮え繰り返るようだった。 「ふざけないで……」 静はスマートフォンを座席に叩きつけた。 タクシーは、歌舞伎町のけばけばしいネオン街で停まった。静はよろめきながら車を降り、目に付いた「Nuit Noire」という高級そうなバーの扉を押した。耳をつんざくような音楽が、彼女の嗚咽をかき消していく。 静はまっすぐバーカウンターに向かい、空いている席にどさりと腰を下ろした。 バーテンダーの江島智紀が、心配そうにチェイサーの水を差し出す。 静はそのグラスを手で払い除けた。 「一番強いやつ。テキーラを」 立て続けに三杯、喉を焼く液体を流し込む。 アルコールが急速に思考を麻痺させ、視界がぐにゃりと歪み始めた。 「クズ男……裏切り者……」 カウンターに突っ伏し、悪態をつく。 江島がため息をつき、二日酔いの薬を取りにバックヤードへ向かった。
その時、店の奥のVIPルームの扉が開き、一人の男がカウンターに現れた。 体に吸い付くように仕立てられた最高級のスーツ。 この店の猥雑な雰囲気とは明らかに不釣り合いな、圧倒的な存在感。 男がウイスキーを注文したその時。 静がふらりと立ち上がり、足をもつれさせて彼の胸に倒れ込んだ。 男は咄嗟にその細い腰を支える。 鼻をつくアルコールの匂いと、微かなバニラの香水の香り。 彼は眉をひそめ、この酔っ払いを突き放そうとした。 だが、静は彼のネクタイをぐしゃりと掴んで離さない。 潤んだ瞳で男の顔を見上げ、へらりと笑った。 「いい男……」 静はしゃっくりを一つすると、バッグから分厚い福沢諭吉の束を取り出し、カウンターに叩きつけた。 「あなたを買う。この店でナンバーワンのホストでしょ?」 男は目の前の札束を見下ろした。 彼は内心で苦笑した。彼、鷹司暁——六本木のペントハウスに住む巨大コングロマリット「鷹司グループ」の新CEOである自分が、よりにもよって歌舞伎町のホストと間違われるとは。 その不快そうな表情が、一瞬にして面白がるようなものに変わる。 暁は慌てて駆け寄ろうとする黒服のボディガードを手で制した。 静は暁が黙っているのを、金が足りないのだと勘違いしたらしい。 今度は首にかけていたネックレスを引きちぎり、暁の手に無理やり握らせた。 それは、拓海から贈られた安物のティファニーだった。 「お願い……私をどこかに連れてって……」 泣きじゃくりながら、静はつま先立ちで彼の首に腕を回す。 熱い吐息が暁の首筋にかかった。 その瞬間、暁の瞳の奥で何かが燃え上がった。 「後悔しても知らないぞ」 低い声が耳元で囁かれる。 静は必死に首を横に振った。 そして、覚束ない動きで自らの唇を彼の薄い唇に押し付けた。 その行為が、暁の理性の最後の糸を焼き切った。 暁は静の手首を掴むと、その体を軽々と横抱きにする。 そして、唖然とする江島を尻目に大股でバーを後にした。
隣接する最高級ホテルのスイートルーム。 暁はドアを蹴るように開け、静をキングサイズのベッドに放り投げた。 静はくぐもった声を上げ、無意識にもっと温もりを求めるように身じろぎする。 暁はネクタイを引き抜き、シャツのボタンを乱暴に引きちぎった。 鍛え上げられた巨大な体が、静の上に覆いかぶさる。 罰を与えるような激しいキスが、静の呼吸を奪っていく。 静は酸素を求めてもがくが、その両手は簡単に頭上で押さえつけられた。 暁の動きは乱暴だったが、どこか抑制が効いていた。 彼は静の最後の抵抗を、いとも簡単に打ち砕く。 鋭い痛みが走り、静は一瞬だけ意識を取り戻した。 「どうして……拓海……」 目尻から涙がこぼれ落ちる。 静の唇から漏れた別の男の名前に、部屋の空気が凍りついた。 暁の動きがぴたりと止まる。 その瞳に、燃え盛るような怒りの炎が宿った。 次の瞬間、彼は嵐のような激しさで静の意識を完全に飲み込んでいった。 静はその猛烈な嵐の中で気を失った。 暁は、涙の跡が残る彼女の寝顔を、初めて感じる苛立ちと共にただ見つめていた。
章一覧
全80章
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