メインコンテンツへスキップ

第3章 第3話 身代わり 悪くないわね

若い看護師が声を潜めた。秘密を暴いた興奮に、声を上ずらせている。

「あの娘、木村先生の初恋の人にそっくりなのよ!」

「嘘でしょ? あの氷の帝王に、忘れられない女がいるなんて」

「本当だってば! 三宅主任が直々に言ってたんだから。三宅主任と木村先生、大学の同期でしょ」

さくらの睫毛がかすかに震えた。

あの日、オフィスで木村大輔が見せた奇妙な態度の理由が、ようやく腑に落ちた。

そっと手を伸ばし、自分の頬に触れる。

自分は、あの男が手に入れられなかった初恋の女に似ているのだ。

忘れられない初恋の相手――。

身代わりを演じるなんてこと。

別に……悪くはないかもしれない。

病院を後にしたさくらは、酒井グループビルへと向かった。

彼女の京繍アトリエ『スタジオ山月記』は、酒井グループの傘下にある。

さくらはアシスタントの斉藤れもんに、この一年分の京繍の注文をすべて出すよう指示した。

びっしりと並ぶ数字に上から下まで目を通すにつれ、心はじわじわと冷え込んでいった。

酒井天の口利きによる顧客が、全体の七割をも占めていたのだ。

この数年、天の人脈の中で生きてきた『スタジオ山月記』には、京繍の注文が絶えなかった。

その日々に慣れすぎて、いつの間にか麻痺していたのだ。

こうして見れば、このアトリエは天の威光を借りていただけにすぎない。

自分は、彼が編み上げた鳥籠の中で羽ばたいていただけの存在だった。

さくらは深く息を吸い込んだ。「れもん、この顧客リストは今後あなたに任せるね。新商品を案内する必要もないし、無理に付き合いを維持しなくていいよ」

れもんは驚きの声を上げた。「さくらさん、でもこの方たちはうちの大口顧客ですよ?」

「大丈夫。新規の販路は私が開拓するから」

さくらは立ち上がり、新作の刺繍デザイン画の束を抱えてプリント室へと向かった。

デザイン部では、木村あんが取り巻きたちに囲まれ、その隣には酒井天が寄り添っていた。二人は親密そうに肩を寄せ合っている。

天が薄く笑った。「今日からあんが正式に酒井デザイン部に配属された。歓迎会を兼ねて打ち上げに行くぞ。俺の奢りだ」

オフィスに歓声が湧き起こる。

さくらの胸には一片の波風も立たなかった。アトリエへ引き返そうとしたが、目ざとい同僚に腕を掴まれる。

「流川さん、どこ行くの? 一緒に行きましょうよ!」

さくらは視線を逸らした。「私は遠慮しておく。今夜は予定があるから」

デザインチームリーダーの星野おとは、以前からさくらのことが気に入らなかった。

なぜこの女だけが、グループ内で独立ブランドを構えることを許されているのか。

おとは鼻で笑った。「みんな行くのに一人だけ来ないなんて、まるで私たちが仲間外れにしてるみたいじゃない」

「山月記がどれだけ独立採算だろうと、管轄はデザイン部でしょ? 木村部長はこれから正式なあなたの上司になるのよ。それくらいの礼儀もないわけ?」

「星野さん、そんな言い方はやめて」あんは二歩歩み出ると、柔らかな口調で取りなした。「流川さん、気にしないで。みんなで楽しく過ごしましょう」

「ちょうど京繍の意匠について教えていただきたかったの。専門的なことは、やっぱりあなたのようなプロに聞くのが一番だから」

如才ない物言いで、さくらは完全に退路を塞がれた。

大勢の視線が集まる中、これ以上断る術はなかった。

バー『迷夢』のVIPボックス席。

中央に陣取った酒井天と木村あんは、まさに主役の座に君臨していた。

隅の席に一人座るさくらは、手元のソーダ水を所在なげに回しながら、周囲の喧騒から浮き上がっていた。

酒が何本も空き、酔いが回るにつれて、社員たちは羽目を外してゲームで盛り上がり始めた。

あんが提案した。「簡単なカードゲームにしましょう。一番小さい数字を引いた人が罰ゲームを受けるの、どう?」

「いいですね! 面白そう!」おとがすかさず同調する。

誰もが口々に賛同の声を上げた。

「木村部長、手加減してくださいね!」

ゲームが始まると、何巡かのうちに一気飲みをさせられる者や、隣の席へ連絡先を聞きに行かされる者が出て、フロアは笑い声に包まれた。

あんは引きが強く、一度も罰ゲームに引っかかることなく安全圏にいた。

傍らに座る天はゲームには参加せず、余裕たっぷりに成り行きを眺めている。

時折あんが振り向くと、甘やかすような薄い笑みを返すだけだった。

新たなゲームで、さくらの前にカードが配られた。

「流川さん、あなたの番よ。怖がらないで、ただの余興なんだから」あんが優しげに促す。

さくらがカードをめくろうとしたその瞬間。

隣に座っていた星野おとがわざとらしくグラスを倒し、さくらのドレスに酒が飛び散った。

「きゃっ! ごめんなさい、わざとじゃないの!」

おとは慌てたふりをして紙ナプキンで拭きながら、身を乗り出してさくらの体を周囲の視線から遮った。

同時に、テーブルの上に伏せられたカードをも隠してしまう。

素早い手つきで、指先に忍ばせていたカードとさくらのカードを瞬時にすり替えた。

「大丈夫よ」

さくらはナプキンを抜き取り、ドレスについた染みを静かに拭った。

手元のカードがすり替えられたことには、疾うに気づいていた。

「何回もやって飽きてきたし、もっと過激なのにしない?」おとが興奮気味に声を張り上げた。

「過激って、どんな?」同僚たちが身を乗り出す。

おとは悪意に満ちた目をさくらに向け、すかさずあんと視線を交わした。

あんが黙認を示す眼差しを返すと、おとは声を張り上げ、冗談めかして煽り立てた。

「一番小さい数字を引いた人は、みんなの前でストリップを踊って場を盛り上げるってのはどう?!」

ボックス席が一気に熱狂的な歓声で沸き立った。

さくらは最初から警戒し、ソファの隙間に最強のスペードのKを隠し持っていた。

何食わぬ顔でそのスペードのKとすり替えようとした、そのとき。

ふと視界の端、薄暗い通路の奥に目を留めた。

見覚えのある長身の男が、店員に案内されて隣のボックス席へと入っていくところだった。

無地の白シャツに、無造作に捲り上げられた袖。照明に照らし出された横顔の輪郭が、くっきりと浮かび上がる。

木村大輔――。

なぜ、あの人がここに?

刹那、大胆不敵な企みが脳裏を駆け巡った。

さくらは周囲を静かに見回すと、すり替えの手を止め、目の前のカードをそのまま表返した。

鮮烈なハートのエース。

「うわっ、ハートのA! 一番小さい数字だ!」

「流川さんが引いたのか?!」

「ほら見ろ、こういう特別な罰ゲームは決まって美女が引くようになってるんだよ!」

男性社員たちが下心を隠さず、さくらに熱い視線を注ぐ。

天はわずかに眉を寄せたが、口を挟むことはしなかった。

待っているのだ。この女が頭を垂れ、甘えて助けを求めてくるのを。

助け舟を出すなど、自分の一言で済む話なのだから。

あんは唇の端をつり上げ、冷たい光を宿した瞳でその光景を眺めていた。

さくらと天の関係は疾うに知っていたが、あえて表沙汰にはしなかった。

所詮、表舞台には出られない、天の気晴らしの玩具にすぎない。

本妻が自ら騒ぎ立てるなど、器の小ささを露呈するようなものだ。

弁えているなら自ら消えるべきだったのだ。身の程知らずを続けるなら、いくらでも惨めな目に遭わせてやるまで。

さくらは青ざめた顔でボックス席に立ち尽くし、ハートのAを強く握りしめた。

おとが冷笑を浮かべて煽り立てる。「流川さん、自分で引いたカードでしょ? まさか―― 今さらビビって逃げる気じゃないでしょうね」

さくらはカードを卓上に置き、その華奢な指先を、着物ドレスの襟元にある組紐の留め具へとゆっくり這わせた。

一つ、二つ……。

熱を帯びた欲望の気配が、ボックス席に立ち込める。

さくらは視線の端で隣の男を捉え、自分の立ち位置が彼の視界に完璧に入っていることを確かめた。

留め具を外し、布地を滑り落とす……。

露わになる、抜けるように白い胸元の素肌。

天の眼差しが暗く沈み、胸の奥に抑えきれない苛立ちが渦巻いた。

狂ったのか? 本当に脱ぐ気なのか――立ち上がって制止しようとした、まさにその瞬間。

――パリン!

隣のボックス席から、硬質なガラスの割れる音が鋭く響き渡った。

現在読めるのはここまでです。

読み進めると物語が続きます。

続きを読む

章一覧

全81章

  1. 第1章第1章 第1話 あの男が必要だ
  2. 第2章第2章 第2話 色っぽい腰、手タレ級の指
  3. 第3章第3章 第3話 身代わり 悪くないわね

新着