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第2章 第2話 色っぽい腰、手タレ級の指

深夜、さくらは桜南マンションへ戻った。

玄関には、天の革靴があった。帰ってきていたのだ。

リビングには酒の匂いが満ち、天はネクタイを緩めたままソファにもたれていた。襟元からくっきりした鎖骨が覗いている。

さくらを見ると、天は唇の端を上げた。「今日は俺の誕生日だぞ。どこで遊び歩いてた?」

腕をつかんで抱き寄せ、酒気を帯びた唇を押しつけてきた。

その顔を見ただけで胃がむかついた。眉をひそめて顔を背ける。だが、顎をつかまれ引き戻された。

「この薄情者。誕生日おめでとうの一言もなしか?」

天の大きな手が、さくらの脚を撫でながら上へ伸びてくる。

「俺の誕生日なのに、こっちがお前にプレゼントしてやらなきゃならないのか?」

天が気に入っていたのは、さくらの美しい容姿だ。そうでなければ、六年もそばに置かなかっただろう。

なかでも、人を誘うようなこの目はひときわ美しかった。

おとなしく従順な性格も、天には心地よかった。

「天……」母のこと、あんのことが脳裏をよぎる。触れられるだけで吐き気がした。

「腕が痛い。離して」

天はさくらを力ずくで押さえつけたまま、甘くなだめる。「どうした? 今日はやけに機嫌が悪いな」

「天……」さくらの声はかすれていた。「母のドナー、いつ見つかるの?」

「さくら、俺も動いてる。お母さんの病状が複雑なのは、お前も知ってるだろ」

なだめるように囁き、再び首筋へ唇を押し当てた。声が肌にくぐもる。

「いい子だから。明日、もう一度医者に相談してみる」

さくらは目を閉じ、心の中で冷たく笑った。

続けて、二つ目の問いをぶつけた。

「じゃあ、私とはいつ結婚するつもり?」

天の動きが、わずかに止まった。

「どうした、急に?」

指でさくらの唇をゆっくりなぞる。まるでペットをあやすように。

「欲しいものなら何でもやる。でも、俺の妻にだけはしてやれない」

天の顔立ちはたしかに美しかった。くっきりした骨格に整った目鼻立ち。野良犬を見つめるだけで、恋でもしているように見えそうな目だ。

だが、その薄い唇からこぼれた言葉はどこまでも冷酷だった。

「天。私と結婚する気がないなら、別れましょう。スタジオ山月記と酒井グループの提携も解消します」

空気が凍りついた。

天の目から余裕が消え、代わりに剣呑な色が浮かんだ。

「結婚なんてただの形だろ。そんなに大事か?」

「愛してるのはお前だけだ。それじゃ足りないのか?」

愛――?

愛しているから、ドナーを隠した。愛しているから、母を死なせようとした。愛しているから、別の女と結婚する。

笑わせる。目の前にいるのは、もう知っている男ではなかった。吐き気がする。

「それなら、きれいに別れましょう」

天は突然さくらの肩をつかみ、ソファへ押し倒した。

「きれいに別れる、だと?」 「母親もアトリエも、その先どうなるか考えたのか?」

天はさくらの頬を軽く叩いた。痛みよりも、侮辱の方が強かった。

「妻の座が欲しいのはわかる。だが、別れをちらつかせて俺を脅すな……」

着信音が鳴り、画面に木村あんの名が浮かんだ。

天はさくらを放すと、一転して声をやわらげた。「はいはい、お嬢様。すぐ行くよ」

出ていく間際、天は言い捨てた。「不満なら金でも使って気を紛らわせろ。俺はお前の機嫌を取る気はない」

ドアが大きな音を立てて閉まった。

さくらはしばらくソファに横たわっていた。背中の鈍痛が、やがて麻痺するまで。

ゆっくり身を起こし、破れたスカートの裾を引き寄せる。無表情のまま浴室へ向かった。

冷水を頭から浴びた。鏡に映る顔は青白い。それでも、瞳だけは冴えきっていた。

体を拭き、ウォークインクローゼットへ入った。

そこに並ぶのは、天が機嫌のいいときに「褒美」として与えたものばかり。以前はもったいなくて使えなかったが、今なら使い道がある。

さくらは写真を撮り、ブランド品の買取業者へ送った。

【全部まとめて、査定額を出してください】

その夜のうちに、さくらはマンションから自分の痕跡をすべて消した。鍵を管理人に預け、スーツケースを引いて親友の家へ移った。

「本気なの?」親友の羽柴みおは、信じられないという顔をした。さくらが六年間、天だけを愛してきたことは誰もが知っている。

さくらは静かにうなずいた。

「だったら、アトリエも酒井グループから抜けちゃいなよ。切るなら、きれいさっぱり切らなきゃ」

「大学時代にOCHHをパリ・ファッションウィークへ進出させた人が、どうして今さら天の下で燻ってるの?」

「スタジオ山月記が契約を解除すれば、違約金は十億円よ」

みおは言葉を失った。

天のことなら、さくらにはよくわかっている。簡単に手放すはずがない。

大輔の顔を思い浮かべ、さくらは小さく呟いた。「でも、そう長くはかからないはず」

ブランド品の買い取りは驚くほど順調に進んだ。

二日後、さくらの口座残高には、見慣れないほど長い数字が並んだ。

大輔への借金は四百万円。そのうち、さくらが口座へ振り込んだのは二百万円だけだった。

残りは、別の目的に使うつもりだった。

翌朝早く、さくらは丁寧に化粧をした。ファンデーションで目の下の隈を隠し、チークで頬に自然な血色を足す。

選んだのはベージュのニットワンピース。体に沿いながらも締めつけず、形のいい鎖骨だけがほどよく覗く。

保温ジャーには、二時間かけて煮た長芋入りのお粥を詰めた。

病院に着くと、診察室のドアが少し開いていた。さくらはそっと押し開ける。

大輔は入口に背を向け、ジャケットを脱いでいた。

広い肩と背中。白いシャツに陽が透け、引き締まった細い腰の線がうっすら浮かんでいた。

心臓が一拍跳ねた。場違いにも、色っぽい腰――そんな言葉が頭に浮かぶ。

大輔が振り返り、白衣のボタンを留めていた指が一瞬止まった。

「木村医師、お礼に伺いました。母の容体もずいぶん落ち着きました。これ、私が作ったお粥です」

保温ジャーを置き、絆創膏を巻いた指をそっとさすった。声には控えめな甘さをにじませる。

「料理はあまり得意ではなくて……不器用なものですから、お口に合うといいのですが」

大輔の視線が保温ジャーをかすめ、ゆっくり上がっていく。最後に、やつれてなお華やかな顔で止まった。

その深い瞳は、さくらの狙いなどとっくに見抜いていた。それでも、何も指摘しない。

「医師として当然のことです。流川さんがこんなことをする必要はありません」

感情の読めない声。それでも、はっきりと一線を引いていた。

「ほんの気持ちです。いただいたご恩に比べたら、こんなものでは足りません」

「それから、このカードですが……」さくらは唇を噛んだ。「二百万円しか用意できませんでした」

まつ毛をかすかに震わせ、か弱さを滲ませた。「残りは、もう少し待っていただけますか?」

大輔は無表情のまま、ひとつうなずいた。

「母の治療では、これからもお世話になります。連絡先を交換していただけませんか?」 「そのたびに病院へ伺うのも、ご迷惑ですから」

診察室に数秒の沈黙が落ちた。

もう駄目かと思ったとき、大輔がスマートフォンを取り出し、QRコードを表示した。

長く整った指。爪は短く清潔に切り揃えられ、節の形まで美しい。まさにメスを握るための手だ。動画に出てくる手のモデルより、よほど目を引いた。

大輔がスマートフォンを軽く振った。見惚れていたさくらは、そこでようやく我に返り、慌てて友だち申請を送る。

「では……保温ジャーは、次に来たときに取りに伺います」

保温ジャーひとつ。それだけで、次に会う口実になる。

ドアが閉まった。

大輔はたった今追加した連絡先をじっと見つめた。

アイコンは北桜京大学の正門前で撮ったさくらの自撮り写真だった。

連絡先を削除するボタンの上で指を止めたまま、数分が過ぎた。

やがて、大輔はそのまま画面を消した……。

診察室を出た途端、さくらの顔から甘やかな笑みが消えた。帰ろうとしたところで、ナースステーションから漏れるひそひそ声が耳に入る。

曲がり角で足を止めた。

「ねえ、木村先生があの人を助けた理由、知ってる?」

「四百万円だよ。ためらいもせずにポンと出したんだから」

「えっ、どうして? 何か知ってるの?」

続きを読みますか?

読み進めると物語が続きます。

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章一覧

全81章

  1. 第1章第1章 第1話 あの男が必要だ
  2. 第2章第2章 第2話 色っぽい腰、手タレ級の指
  3. 第3章第3章 第3話 身代わり 悪くないわね

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