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第2章 手術台からの逆転劇
玲栄の声が手術室に響き、払いのけられた金属のトレイが甲高い音を立てて床に落ちた。
ピンセットや器具が散乱する中、看護師が悲鳴を上げて駆け寄り、玲栄の両肩を押さえようとする。
「奥様、動いてはいけません! 受精卵はもう解凍してあります。今中止したら、すべて無駄になります!」
玲栄は看護師を睨みつけ、その手を振り払った。素足のまま床に降り立つと背筋を伸ばし、高田康夫を正面から見据える。
高田はマスクを顎まで下ろし、眉間に皺を寄せた。
「玲栄さん、外では早見の若旦那様が待っておられるんですよ。これは早見家の跡継ぎを授かる唯一の希望だ。正気ですか?」
早見家の寄付金に群がり、北斗の手先として動くこの男の顔を、玲栄は前世で嫌というほど見てきた。目を細めて、鼻で笑う。
そのまま検査着の紐を解き、壁のハンガーに掛かっていたトレンチコートを羽織る。
高田は顔色を変え、自動ドアの前に立ちはだかった。
「若旦那様の許可なく、ここから出すわけにはいきません」
玲栄は足を止め、壁際の椅子に置いたハンドバッグから小切手帳と万年筆を取り出した。迷いのない手つきで数字を書きこみ、一枚をピリリと切り取る。
五千万円。
その小切手を二本の指で挟んで高田の前に突きつけると、高田の瞳孔が収縮した。荒い息が、静まり返った手術室に漏れる。
「高田先生。これだけあれば、先生がスイスに持っているあの口座も、ずいぶん膨らむんじゃないかしら」
高田の額から汗が噴き出し、唇が小刻みに震えた。
「奥様……いったい、どういうおつもりで……?」
玲栄は一歩踏み出し、高田の耳元に唇を寄せて囁いた。
「その受精卵が、私のものではないと知っているわ。不妊症なのは私じゃない。武村乃々香でしょ?」
雷に打たれたように高田の体が跳ね、後ろへよろめいてドアのセンサーに背中をぶつけた。昨日までおとなしく従順だった若奥様が、地獄の底から這い上がってきた悪魔のように見える。
玲栄は高田の白衣の胸ポケットに小切手を滑りこませ、乱れた襟元を軽く整えてやった。
「このお金を受け取って、外で待っている北斗にこう言いなさい。『移植手術は大成功だった』と」
高田は渇いた喉を鳴らした。
「し、しかし……本物のカルテはどうなさるおつもりで……?」
「私が健康体であること、武村乃々香の卵管が永久に閉塞していることを証明する診断書の原本を出しなさい。一つ残らずよ。血液検査データも偽装しておきなさい」
拒絶を許さない玲栄の気迫と、目の前の大金、そして医療犯罪が暴かれる恐怖の狭間で、高田は数秒葛藤した。やがて力が抜けたようにうなだれ、深く頭を下げる。
「……承知いたしました。診断書の原本は、私の執務室の金庫に保管してあります」
口角を上げた玲栄の前で、高田は震える足取りで部屋の隅の作業台へ向かった。乃々香の受精卵が入った試験管を医療廃棄物用の小型焼却炉に放りこみ、スイッチを押す。
低い駆動音とともに青い炎が一瞬揺らめき、前世で玲栄を縛りつけた呪いの種は、完全に灰へと変わった。
玲栄は自分の平坦な腹部へ左手を当て、手のひらをぎゅっと握りしめた。
(二度と誰かの道具にはならない。早見家が私から奪ったものは、何倍にもして取り返す)
数分後、奥の執務室から戻った高田が、茶封筒をうやうやしく差し出した。中身を引き出して目を通すと、病院の公印が押された検査結果の原本には、武村乃々香の名前と不妊の診断がはっきりと記載されていた。
封筒をコートの内ポケットにしまい、玲栄は自動ドアの開閉ボタンを押した。
重い扉が開くと同時に、廊下のざわめきと慌ただしい足音が飛びこんでくる。オーダースーツに身を包み、左手首に赤い朱砂の数珠を巻いた夫の早見北斗が、心配そうな表情を作って駆け寄ってきた。
玲栄は深く息を吸い、瞳の奥の光を消した。今にも倒れそうなか弱い妻の顔を作って、ドアの枠に寄りかかる。
北斗が目の前まで迫ったその瞬間、玲栄の視界の端に壁掛け時計が映った。
四月十五日、午前十時二十分。
早見グループ内でただ一人、北斗と対立している名目上の叔父、杉本潤斗が首都高速で大型トラックに追突されて死ぬ事故まで、あと七分。
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