メインコンテンツへスキップ

第3章 死の淵からの緊急コール

「玲栄、手術はどうだった?! 先生は何と?!」

早見北斗が息を荒らげて駆け寄り、玲栄の細い腰を抱き寄せようと手を伸ばしてきた。

玲栄はめまいがしたふりをして体を傾け、その手をすり抜けると、脇の長椅子の肘掛けに手をついた。北斗の左手首で揺れる朱砂の数珠を見るだけで、胃の底から酸っぱいものがこみ上げてくる。

自分の手が空を切ったことに苛立ったのか、北斗はネクタイを乱暴に引っ張り、声を荒らげた。

「なぜ黙っているんだ! まさか失敗したのか?!」

背後から高田康夫が、額の汗を拭きながら歩み出てきた。

「おめでとうございます、若旦那様。受精卵の着床手術は完璧に成功いたしました。奥様には、これから絶対安静が必要です」

その言葉を聞いた瞬間、北斗の険しい顔がぱっと明るくなり、両手を合わせて天井を仰いだ。

「ああ、神様仏様! 日枝神社の宮司様のお告げ通りだ! この幸運の三つ子が生まれれば、早見家の次期会長の座は俺のものだぞ!」

欲望と迷信しか頭にない男の横顔を見やりながら、玲栄はか細い声を作った。

「北斗さん……少し気分が悪いの。お手洗いに行って、顔を洗ってくるわ」

跡継ぎ誕生の喜びに酔っている北斗は、玲栄を見向きもせずに手を振った。

「ああ、行ってこい。あまり歩き回るなよ。俺は入院の手続きをしてくる」

玲栄は足音を忍ばせて廊下を曲がり、誰もいないVIP用の更衣室に滑りこむと、内側から鍵をかけた。

バッグからスマートフォンを取り出す。午前十時二十二分。首都高速湾岸線で起きる大惨事まで、あと五分。

前世の今日、早見家の私生児とされながら圧倒的な投資の才覚を持っていた叔父の杉本潤斗が、事故で海に転落して命を落とした。最大のライバルが消えたからこそ、北斗はやすやすとグループの中枢を手に入れ、玲栄を地獄へ突き落とす権力を得たのだ。

(敵の敵は味方。北斗を潰すには、杉本潤斗に生きてもらわなければ困る)

玲栄は、前世で潤斗の遺品整理を手伝わされた時に記憶した極秘番号を、迷わず画面に打ちこんだ。呼び出し音が鳴るたび、心臓が早鐘を打つ。

同じ時刻。今にも雨が降り出しそうな鉛色の空の下、首都高速湾岸線の大井南付近を、黒いアストンマーティンが疾走していた。

運転席の男は彫刻のように端正な顔立ちをしており、右目の下に小さな泣きぼくろがある。早見家に私生児の杉本潤斗として潜りこんでいる男の本名は、芳賀恭佑。欧州の巨大組織、芳賀財閥の真の継承者だった。

ダッシュボードのモニターが光り、暗号化されていない見知らぬ番号からの着信が表示される。潤斗はわずかに眉をひそめ、通話ボタンを押した。

「……誰だ」

スピーカーから、切迫した女の声が飛びこんできた。

『杉本さん、今すぐ左へ車線変更して! 右後方三百メートルを走っているタンクローリーのブレーキが壊れているわ!』

潤斗の漆黒の瞳がわずかに細められ、右手の親指が無意識にステアリングの革を強く擦った。

「お前は誰だ。なぜこの番号を知っている」

『説明している時間はないの! 二十秒後に鉄くずになりたくなければ、今すぐ左の非常駐車帯に入ってブレーキを踏んで!』

女の声には、嘘や冗談とは思えない、有無を言わせぬ気迫がこもっていた。潤斗が右側のサイドミラーへ視線を向けると、後方を走る大型タンクローリーが不自然に車体を揺らし、タイヤの脇から激しく火花を散らしているのが見えた。

次の瞬間、潤斗は迷わずステアリングを左へ限界まで切り、非常駐車帯に入るとブレーキペダルを床まで踏み抜いた。

タイヤがアスファルトを削る激しい悲鳴を上げ、黒い車体が半回転しながら、ギリギリのところで左端の非常駐車帯へと滑りこんだ。

十秒後、制御を失ったタンクローリーが猛スピードで右側方から狂暴に走り去っていった。潤斗が直前まで走っていた中央車線のガードレールをなぎ倒し、後続のトラック三台を巻きこんで大爆発を引き起こす。

ドォォォン!

巨大な火柱が黒煙とともに立ち昇り、爆風がアストンマーティンの窓ガラスを激しく揺らした。燃え盛る破片が豪雨のようにルーフへと降り注ぐ。

車内に、死のような静寂が落ちた。潤斗の額から一筋の汗が伝い落ち、ステアリングを握る指の関節が白く浮き上がっている。あと数秒でも判断が遅れていれば、今頃あの炎の中で跡形もなく消し飛んでいたはずだ。

通話は繋がったままだ。スピーカーから、小さく息を整える女の気配が聞こえてくる。潤斗は深く息を吐き出し、鋭い光を宿した目でモニターを見つめた。

「……俺の命を救ったな。お前、いったい何者だ」

スピーカーから、女の声が返ってきた。

『早見北斗の妻、鈴木玲栄よ。今夜八時、赤坂の料亭『水月』で待っているわ』

それだけ告げると、通話は一方的に切れた。通話終了の画面を見つめながら、潤斗の口元に浅い笑みが浮かぶ。

(早見北斗の妻が、か。……面白い)

現在読めるのはここまでです。

読み進めると物語が続きます。

続きを読む

章一覧

全20章

  1. 第1章第1章 墓石に刻まれた血の呪い
  2. 第2章第2章 手術台からの逆転劇
  3. 第3章第3章 死の淵からの緊急コール

新着