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第2章
重いオーク材の扉を押し開けると、玄関ホールに立っていた家政婦の鈴木千代が、凛の姿を見て短い悲鳴を上げた。 「奥様!まあ、なんてお姿に……!」 千代は慌てて駆け寄り、清潔なタオルで凛の額の血を拭おうとする。しかし凛は、力なく首を振ってそれを拒んだ。 「旦那様に、すぐに連絡を……!」 電話へ向かおうとする千代を、凛は冷たい声で制止した。 「……必要ありません」 「しかし!」 心配のあまり、千代は凛の制止を振り切って固定電話の受話器を取り上げた。奇跡的に、その電話は暁に繋がった。 涙声で凛の怪我の状況を訴える千代。電話の向こうで、一瞬の沈黙が流れた。壁に寄りかかりながら、凛は無表情のまま、暁が何を言うかに耳を澄ませていた。 やがて、受話器からくぐもった声が漏れ聞こえてくる。 「……大袈裟に騒ぐな。今、帰る」 その低く吐き捨てるような声に、凛の心はさらに凍てついていく。 千代が安堵して救急箱を取りに走る隙に、凛は濡れた靴を脱ぎ捨て、冷たい大理石の廊下を歩き始めた。一歩踏み出すごとに、事故の衝撃を受けた全身の筋肉が悲鳴を上げる。特に額の傷口は脈打つように痛み、視界がぐらりと揺れた。それでも凛は壁に手をつき、歯を食いしばってリビングのソファに深く沈み込む。豪奢だが、生活感のない部屋。この家に嫁いで七年、改めてここが自分のいるべき場所ではないと痛感した。 その時、玄関のドアが乱暴に開く音がした。 苛立った足取りでリビングに現れたのは、西園寺暁だった。彼の視線が、血に濡れた凛を一瞥する。だが、そこに心配の色はなく、むしろ迷惑だと言わんばかりに眉がひそめられた。 『どうせいつもの気を引くための狂言だろう。少し顔を出して、適当に宥めたらすぐに絢子の元へ戻ろう』。暁の苛立たしい歩調からは、そんな身勝手な本音が透けて見えた。実際に血にまみれた凛の姿を見ても、彼は『ここまで巧妙に偽装して俺を縛り付けようとするのか』と、捻じ曲がった解釈しかできないようだった。 「お父さん!」 暁の背後から、六歳になる娘の桜子が飛び出してきた。不満げな顔で、父親の足に抱きつく。 桜子はソファに座る凛の姿を認めると、露骨に顔をしかめた。 「うわ、血が出てる。気持ち悪い」 その言葉が、凛の胸に突き刺さる。傷ついた心で、それでも娘に手を伸ばそうとした。 だが、桜子はその手を避けるように、さっと暁の背中に隠れた。 「お母さんの怪我のせいで、絢子おばちゃんと遊ぶ時間が短くなっちゃったじゃない!」 甲高い声が、リビングに響き渡る。伸ばした凛の手が、空中で虚しく震え、力なく落ちた。 暁は、そんな娘をたしなめることすらしなかった。 「我慢しなさい」 そう言い放っただけで、凛への配慮はひとかけらも感じられない。 「……あなたにとって、私は何なの」 かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほど低く、冷たかった。 「疲れているんだ。話は後だ」 暁は会話を打ち切るように言った。 そこへ、千代が救急箱を持って戻ってくる。だが、リビングの険悪な空気に怯え、立ちすくんでしまった。 暁は千代の手から乱暴に救急箱をひったくると、大きなため息をつきながら、凛の前にドカッと腰を下ろした。 無言で消毒液の蓋を開ける。その手つきはどこまでも乱暴で、愛情など微塵も感じさせない、ただの義務だった。 消毒液を浸した綿が、傷口に押し当てられようとした、その瞬間。 「……触らないで」 凛は、暁の手を冷たく払い除けた。初めて見せる、明確な拒絶だった。 「なっ……!」 拒絶されたことに驚きと怒りを滲ませ、暁が目を丸くする。 「いい加減にしろ!素直に手当てを受けろ!」 威圧的な怒鳴り声が、凛の頭上で炸裂した。 その声に便乗するように、桜子が叫ぶ。 「お母さん、わがまま!絢子おばちゃんはもっと優しいのに!」 娘からの、決定的な裏切りの言葉。 その一言で、凛の瞳から光が完全に消え失せた。そこにはもう、何の感情も映らない。ただ、漆黒の虚無が広がっているだけだった。 ゆっくりと、凛は立ち上がった。立ち上がる瞬間、目眩が襲い、膝から崩れ落ちそうになったが、彼女は驚異的な精神力で両足を踏ん張った。 そして、自分を見下ろす夫と、自分を拒絶する娘を、見下ろし返した。 その唇に浮かんだのは、氷のような、冷たい笑み。 「……っ」 見慣れないその冷笑に、暁が一瞬たじろぐ。何かを言いかけたが、彼のプライドがそれを許さなかった。 「もう、結構です」 凛は静かにそう言い放つと、二人に背を向け、階段へと歩き出した。ズキズキと痛む頭を抱え、足元がふらつきながらも、決して彼らの前で倒れることだけはすまいと、手すりを強く握りしめた。 「お母さんなんか、大嫌い!」 背中に投げつけられた言葉にも、凛の足取りは一切揺るがない。 凛の姿が、二階の暗い廊下の奥へと消えていく。その背中を、暁は説明のつかない焦燥感と共に、ただ見送ることしかできなかった。
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