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第2章 偽善者たちの茶番
薄暗い地下の階段を、一段ずつ踏みしめるように上がっていく。歩みを進めるごとに、その瞳の奥に宿る冷徹な決意は、より深く、鋭い光を帯びていった。
上りきった先に、リビングへ続く重厚な木の扉がある。隙間から暖かい光が漏れ、佳恵を甘やかす家族の声が聞こえた。
「お父様、生姜湯おかわりはいかが?」
凛は扉の前で足を止めた。血のにじんだ布を巻いた左手で、真鍮のドアノブを握る。
「ぎぃ――」
重い扉が開いた音で、リビングの笑い声が止まった。
中央の革張りソファでは、カシミヤのショールを羽織った進藤佳恵が、養母・岡村桂子の腕に身を預け、湯気の立つカップを両手で抱えている。
大谷グループ現当主の大谷博夫が眉をひそめて振り返り、ボロボロの患者衣に血のにじんだ手の甲という凛の姿を見るなり怒鳴った。
「誰の許可で出てきた! さっさと反省室へ戻れ!」
五年前、孤島の更生施設から凛を引き取って以来、この男が父親らしい言葉をかけたことは一度もない。
凛は怒鳴り声を聞き流し、裸足のままペルシャ絨毯の上を進んだ。みすぼらしい身なりなのに、足取りは堂々としている。
佳恵は凛と目が合った瞬間、背筋に氷を当てられたように震え、博夫の背後に縮こまった。大きな瞳に、すぐさま涙が浮かぶ。
「お父様……お姉ちゃんを責めないで。あの時、私が不注意で自分から落ちただけなの。お姉ちゃんのせいじゃないわ、ゴホッ、ゴホッ……」
か細く咳き込み、計算されたタイミングで頬に一筋の涙を伝わせる。
大谷家の長男・大谷智也が痛ましそうな顔で佳恵の肩を抱き、凛を睨みつけた。
「佳恵はこんなに弱ってるのに、まだお前をかばってるんだぞ! 池原凛、お前の心は石でできてるのか?!」
凛は三メートルほど離れて足を止め、並んだ偽善者の顔を順に見渡した。腕を組んで、鼻で笑う。
「自分で滑り落ちたんでしょう。なら、こんな夜中に私を地下室へ閉じ込めて血を抜いてたのは何のため? 池の鯉に捧げるつもりだった?」
広いリビングが静まり返った。これまでどんな扱いを受けても黙っていた凛が、ここまで言い返してくるとは誰も思っていなかった。
博夫がテーブルを拳で叩いた。ティーカップが乾いた音を立てる。
「口の利き方に気をつけろ! お前は誰のおかげで飯を食い、服を着ていられると思っている! 佳恵は生まれつき体が弱いんだ。お前の血を少し分けるのがどうした! それが恩だろうが!」
「恩?」
凛は身じろぎもせず、胃病で黄色くくすんだ博夫の顔を見た。前世で自分の臓器提供を決め、死へ追いやったのはこの男だ。
「私の記憶が確かなら、あなたがこの三年、胃潰瘍の発作を起こさずに済んでいるのは、私が毎日煎じていた薬膳のおかげよ。去年、大谷グループの資金繰りがショートしかけたとき、競合のシステムに潜り込んで中核データを取り戻したのも私だけど」
桂子の顔色が変わった。
「でたらめをお言いんじゃないよ! 旦那様の胃が良くなったのは、佳恵が神社でいただいてきたご神水のおかげでしょう! 高校もまともに出ていない落ちこぼれに、パソコンの何がわかるっていうの!」
佳恵も桂子の腕の中でしくしくと泣いた。
「お姉ちゃん、どうして私の手柄を横取りするの……? 嫉妬してるのはわかるけど、お姉ちゃんを追い出そうなんて一度も思ってないのに……」
凛の胸には怒りすら湧かなかった。ただ滑稽だった。
「手柄の横取り?」
凛は少し身を乗り出した。
「なら言ってみなさいよ。あの薬膳に使ってる十八種類の生薬の名前、全部言える? ファイアウォールを抜く基礎コードが何か、知ってる?」
「え……そ、それは……」
佳恵の顔色が青くなったり赤くなったりし、助けを求めて博夫の袖を引く。
「お父様、お姉ちゃんが怖い目で私を睨むの……」
父親としての権威を踏みにじられた博夫は、血を上らせて立ち上がった。大股で凛の前まで来ると、右手を高く振り上げる。
「恩知らずのろくでなしめ! 今日は親の代わりに、この俺が性根を叩き直してやる!」
平手が風を切って落ちてくる。その直前、凛の目が細められた。左手が跳ね上がり、博夫の手首を空中で受け止めた。
万力に挟まれたように、博夫の手が止まる。いくら力を込めても一ミリも動かない。目を見開いた。
「私の両親に代わって?」
凛が指に少し力を込める。博夫は「うぐっ」と息を詰まらせ、不格好に腰を折った。
「あんたごときが、私の両親を口にするな」
凛は手を乱暴に振り払った。博夫はよろめいてテーブルの角に腰を打ちつけ、ようやく踏みとどまる。
「お父様!」「旦那様!」
智也と桂子が駆け寄り、青ざめた博夫を支えた。
「は、反逆だ……!」博夫は脂汗を浮かべて怒鳴った。「この飼い犬が! 今すぐ土下座して佳恵に謝れ!」
凛は左手の甲を軽くさすりながら、ゴミを見る目で見下ろした。
「土下座? 大谷家の腐った骨ごときに、私の膝を折らせる価値があるとでも?」
智也が顔を真っ赤にして指を突きつける。
「池原凛、お前、頭がおかしくなったのか?! 大谷家を出たらお前なんかゴミ同然だぞ! お父様が本気になれば、今すぐ叩き出して路頭に迷わせることだってできるんだからな!」
凛は怒るどころか、声を上げて笑った。
「私を叩き出す?」
少し首を傾げ、楽しそうに目を細める。
「願ったり叶ったりよ」
そう言い残し、凛はくるりと背を向けた。一抹の未練も見せず、玄関へ向かって歩き出す。
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