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第3章 鎖を断ち切る時

「待て!」

博夫の怒声がリビングに響いた。

「大谷家をホテルか何かと勘違いしているのか?! 自分の勝手で出入りできると思うな!」

凛の足がわずかに止まった。だが振り返らない。冷ややかな横顔だけを見せる。

足を止めたのを見て、智也は追い出されるのが怖くなったのだと勘違いしたらしい。慌てて前に回り込み、凛と玄関の間に立ちはだかった。そして、恵んでやるという上から目線でため息をつく。

「凛、お父様もカッとなって言っただけだ。今すぐ佳恵の前で土下座して、『自分が池に突き落としました』と認めれば、お父様も前みたいに可愛がってくださるよう、俺から口利きしてやるよ」

恩着せがましく語る智也の顔を見ながら、凛は胃の奥から吐き気が込み上げてくるのを覚えた。前世、この男は優しい兄のふりをして凛を欺き、裏で闇医者を手配し、手術同意書を偽造させた実行犯だ。

「どいて」

低い声だったが、有無を言わせない響きがあった。

智也は一瞬きょとんとし、すぐに仮面を引き剥がした。

「池原凛、情けをかけてやれば図に乗りやがって! この扉を一歩でも出てみろ、今夜のうちに野垂れ死ぬことになるぞ!」

「大谷の若様が心配することじゃないわ」

凛は氷のような視線を智也に向けた。

「邪魔よ、負け犬。そこをどきなさい」

「負け犬だと?!」

頭に血が上った智也は、凛の肩を掴み上げようと乱暴に手を伸ばした。

「口だけは達者になりやがって! 俺が直接、反省室に縛りつけてやる!」

指先が肩に触れる寸前、凛は肩を沈め、半歩横へ滑った。

空を切った智也は勢いを制御できず、前へ大きくつんのめった。もう少しで顔面から床に突っ込むところだった。

「智也お兄様、危ない!」

佳恵が悲鳴を上げた。

体勢を立て直した智也を、凛は腕を組んだまま見つめた。

「大谷家の御曹司ともあろう方が、足腰がずいぶん弱いのね」

嘲笑が見えない平手となって智也の頬を張った。耳まで真っ赤にして睨み返したが、先ほどの身のこなしに気圧され、もう一度飛びかかる勇気は出ない。

息子が赤っ恥をかかされた博夫は、怒りでズキズキと痛み出した胃を押さえた。

「いいだろう! そこまでして出ていきたいなら勝手に出ていけ! 大谷家は恩知らずの野良犬を飼っていたと思うことにする!」

凛の背中を指差し、博夫は陰湿な声で続けた。

「だが、よく聞け! お前がその扉を出た瞬間、大谷家が与えたクレジットカードはすべて凍結し、服も宝石も残らず回収する! この大谷博夫の庇護を失えば、お前など社会に出ても野良犬以下だということを、骨の髄まで思い知らせてやる!」

何不自由ない暮らしに慣れた小娘が、一文無しで雨の夜に放り出される恐怖に耐えられるはずがない。どうせすぐ泣きついてくる――博夫はそう確信していた。

凛はゆっくりと振り返り、博夫を正面から見据えた。その瞳には恐怖も未練もなく、重荷を下ろしたような晴れやかさだけがあった。

「カードの凍結? 宝石の回収?」

くすりと笑う。

「大谷社長、記憶喪失にでもなったの? この家が私に与えたものなんて、最初から腐りかけの残り飯と、このボロボロの患者衣だけじゃない」

凛は両手を広げ、洗いざらしで血の染みのついた患者衣を見せつけた。博夫は言葉に詰まった。

「それに、大谷家の庇護ですって?」

笑みが消えた。

「そんなもの、私がこれまでの人生で経験した中で、一番吐き気のする呪いよ」

智也が歯を食いしばって吠えた。

「絶対に後悔するぞ、池原凛! 腹を減らして道端でゴミ箱をあさるようになっても、土下座して泣きついてきたって、俺たちは二度とお前なんか見向きもしないからな!」

凛は言い返す価値もないと判断し、再び背を向けて玄関へ足を踏み出した。大谷家の面々は、思い通りに操ってきたはずの少女が支配から抜け出していくのを、ただ黙って見ていることしかできなかった。

凛の手がドアノブに触れようとした、その時だった。

二階へ続く階段の上で、床を踏み鳴らす荒い足音がした。

「このクソ女! 佳恵を池に突き落としておいて、このまま逃げられると思ってんのか! ぶっ殺してやる!」

吹き抜けの天井に怒号が響いた。

凛は振り向いた。階段の踊り場に飛び出した人影を見上げ、唇の端をわずかに緩める。

「――来たわね」