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チャプター 2 離婚しましょう
斎藤柚衣は、あまりの痛みに目を覚ました。
指を動かしてみると、左腕にはギプスがはめられ、手の甲には軟膏が塗られており、ガーゼの下からは赤黒い血が透けて見えた。
背中からは鈍い痛みが波のように押し寄せてきた。そこはデブリードマンと植皮手術を受けたばかりだった。
柚衣は天井を見つめたまま、頭の中は真っ白になっていた。
看護師が薬の交換に入ってきて、柚衣が目を覚ましているのに気づいてハッとした。「奥さん、ようやくお目覚めですね。 運ばれてきた時は血圧がほとんど測れない状態で、あと10分遅ければ助からなかったと先生がおっしゃっていましたよ」
柚衣は返事をせず、ただ静かに横たわり、うつろな目で天井を見つめていた。
頭の中には、ただ1つの思いしかなかった。
(天陽は、来てくれたのだろうか?)
看護師は薬を交換し終えると、小声で言った。「奥さん、できるだけ早くご家族に連絡を取った方がいいですよ。そのお怪我は、しばらく誰かの看病が必要です」
それを聞き、柚衣は手のひらをぎゅっと握りしめた。
やはり考えすぎだったのだ。松原天陽は、一度も来ていなかった。
看護師が出て行った後、彼女が他の看護師たちと小声で噂話をしているのが聞こえてきた。
「隣のVIPルームに誰が入院してるか知ってる?」
「誰なの?」
「松原の奥様よ。もう妊娠六ヶ月らしくて、松原社長は気が気じゃないみたい。 運ばれてきた時の社長の顔ったら、真っ青で、危うく救急救命室のドアを蹴り飛ばす勢いだったんだから」
「わあ!松原社長って本当にいい旦那様ね」
「そうよ、社長がずっと付き添ってるの。あのVIPルームの待遇を見せてあげたいわ。24時間体制の特別看護に、人工呼吸器が3台も用意されて、院長自ら2回も様子を見に行ったのよ。 実際は煙を少し吸い込んだだけなのに」
「へえ、本当に羨ましいわね」
……
柚衣の爪が、ガーゼ越しに手のひらに食い込んだ。
すぐ隣にいるのに、天陽は一度も顔を見せに来なかったのだ。
その時、ドアが押し開けられた。
黒いスーツを着た男が、書類鞄を提げて入ってきた。
「斎藤さん、弁護士の前田雅博です」 彼はドアを閉め、事務的な微笑みを浮かべた。「天草さんは今回の事故について深く謝罪しており、命を救ってくださったことにも大変感謝しております。 この1千万円の小切手、どうかお受け取りください」
柚衣は目を伏せ、その小切手を見つめた。
署名欄には、天陽の印鑑が押されていた。
指先が、ぎゅっと強張った。
「天草さんは松原社長の奥様です。斎藤さんが天草を救ってくださったこと、社長も大変感謝しておられます」 前田は柚衣が動かないのを見て、さらに付け加えた。「お受け取りください、これは松原社長のご意向です」
柚衣は顔を上げ、かすれた声で言った。「松原社長の意向?」
「はい」
「彼本人がそう言ったの?」
前田はその鋭い視線に一瞬呆気にとられたが、すぐに鼻で笑った。「その口ぶりだと、まるで松原社長と親しいかのようですね?」
柚衣は前田を見つめながら、ふと滑稽に思えた。
自分が、天陽の愛人を救ったのだ。
それなのに、天陽は弁護士に1千万円を持たせ、謝礼として突き返してきた。
自ら足を運ぶことすらしなかった。
怪我が重いかどうか、一言尋ねることさえなかったのだ。
柚衣は顔を上げ、静かな声で言った。「サインはしません」
前田は眉をひそめた。「斎藤さん、この1千万円は……」
「サインはしないと言いました」
前田は柚衣を2秒ほど見つめたが、その態度が断固としているのを見て、小切手をしまい、鞄を提げて出て行った。
ドアが閉まった。
病室は再び静けさを取り戻した。
柚衣がベッドのヘッドボードに寄りかかると、背中の傷口が引きつり、全身が震えるほど痛んだ。
目を閉じると、ふと3年前の出来事がよみがえってきた。
あの交通事故で、柚衣は天陽を突き飛ばし、左耳は衝撃でほとんど聴力を失ったのだ。
彼は柚衣を抱きしめ、震える声で言った。「柚衣、正気か?」
柚衣は彼の腕の中で横たわり、耳鳴りが止まない中で、それでも笑って見せた。「あなたが無事ならそれでいいの」
そして、彼は柚衣と結婚した。
それが愛の始まりなのだと、彼女は信じていた。
だが3年の結婚生活で、彼は柚衣に対して常によそよそしく、彼女に触れることさえ義務をこなしているかのようだった。
生まれつき冷淡な人なのだと思っていた。
時が経てば、いつかその心を溶かせるはずだと思っていた。
だが、そうではなかった。
彼も優しくなり、緊張し、心を痛めることができるのだ。
ただ、その相手が柚衣であったことは一度もなかっただけだ。
1週間後、柚衣は目を覚まし、スマートフォンのカレンダーを見つめて全身を強張らせた。
これほど長く入院しているというのに。
天陽からは、終始1通の電話も、1件のメッセージすら来なかった。
柚衣は自嘲気味に笑い、スマートフォンを置こうとした時、廊下の向こうが突然騒がしくなった。
「奥様、ゆっくり、段差にお気をつけください」
「葵桜、まだ痛むか?抱っこしようか?」
柚衣は全身を強張らせた。
病室のドアの隙間から、廊下の向こうで天陽が自ら天草葵桜の肩を支え、うつむいてお腹がまだ痛むかと優しく尋ねているのが見えた。
その横顔は、あり得ないほど優しげだった。
それは、柚衣が今まで一度も見たことのない姿だった。
葵桜は甘えるように彼の胸に寄りかかった。「天陽、もう大丈夫よ、そんなに緊張しないで」
「君は子供を身籠っているんだ、緊張しないわけがないだろう」
柚衣は体を丸めた。その動きで背中の傷口が引きつり、全身が震えるほど痛んだ。
ふと思い出した。あの火事の日、柚衣は彼に何度も電話をかけた。
だが、彼は一度も出なかった。
しかし葵桜のためなら、たった1本の電話で彼はすべてを投げ打ち、彼女のそばへと飛んで行くのだ。
愛しているか、愛していないか。それはこんなにも明白だった。
この仮面夫婦のような結婚生活は、3年間持ちこたえた。
だが、もう終わりにすべき時だ。
柚衣はスマートフォンを取り出し、画面の上に指先を浮かばせた。
そして、一文字一文字打ち込んでいった。
「松原天陽、離婚しましょう」
スマートフォンを置き、パソコンを開いて、3年間放置していたアカウントにログインした。
柚衣は1行のメッセージを打ち込んだ。「戻ったわ」
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全11章
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