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チャプター 3 彼女は自分を取り戻す
退院の日、斎藤柚衣は1人で手続きを済ませた。
柚衣はタクシーで家に戻り、靴を脱いで奥へと進んだ。
リビングにはほのかな白檀の香りが漂い、松原天陽は柚衣に背を向けて窓辺に立ち、電話をしていた。
その声は低く抑えられ、まるで誰かを甘やかしているかのようで、口角にはわずかに笑みが浮かんでいた。
柚衣は足を止め、その背中をじっと見つめながら、一瞬ぼんやりと立ち尽くした。
体はまだひどく痛んでおり、口を利くのも億劫だった。ましてや、この数日間なぜメッセージ1つ、電話1本も寄こさなかったのかと問い詰め、自ら惨めな思いをする気などとうになかった。
だが、もうすべてがどうでもよかった。
背を向けて2階へ荷物をまとめに行こうとした時、背後から天陽の声が響いた。「どこに行っていたんだ? 数日も家を空けて」
その口調に気遣う色はなく、ただ責めるような響きだけがあった。
柚衣は足を止めたが、振り返ることはしなかった。
天陽は歩み寄り、彼女の行く手を遮った。「俺がメッセージに返信しなかったから、怒っているのか?」
(なんだ、メッセージは見ていたのね。ただ返信する気がなかっただけで)
柚衣は体の横に垂らした両手をわずかに握りしめたが、その声はひどく淡々としていた。「いいえ」
天陽は眉をひそめた。ただ彼女が機嫌を損ねているだけだと思い込み、言い聞かせるように説明した。「この数日は本当に取り込み中でね。友人が事故に遭って、ずっとその対応に追われていたんだ」
友人――。天草葵桜のことだろう。
実によくできた言い訳だ。
柚衣は伏し目がちになり、まつ毛をかすかに震わせた。「分かっているわ。あなたにとって、とても大切な……。お友達ですものね」
そう言い残し、彼女は彼の横をすり抜けて2階へ上がろうとした。
天陽はさらに眉を深くひそめた。「今日は一体どうしたんだ? 嫌味な言い方をして。ちゃんと説明しただろう? お前は一体、何を拗ねているんだ?」
(拗ねている?)
柚衣はふと笑い出したくなった。
(自分は彼の愛人を救うために、危うく命を落としかけたというのに)
(挙句の果てに、拗ねていると非難されるというのか?)
柚衣はふいに顔を上げ、目の前にある見慣れた顔を見つめた。その瞬間、すべてが急に無意味に思えた。
柚衣は唇を噛み締め、とても静かな、しかしはっきりとした声で言った。「松原天陽、離婚しましょう」
天陽は一瞬呆然としたが、すぐに深い淵のような冷たい瞳で彼女を探るように見つめた。「いい加減にしろ、離婚を盾に俺を脅すな」
柚衣はこれ以上言い争う気にもなれなかった。「脅してなんかいない。私は本気よ」
天陽を押し退け、まっすぐ2階へと向かった。
「柚衣、俺から離れてどうやって生きていくつもりだ? ここ数年、お前はずっと俺に頼りきりだったじゃないか」
柚衣の足がピタリと止まった。
天陽はそれを見て、少し口調を和らげた。「今日の言葉は聞かなかったことにしておく。早く休め」
柚衣は、彼の瞳の奥に浮かんだ一抹の侮蔑を見逃さなかった。
爪が手のひらに深く食い込んだが、その眼差しはますます揺るぎないものになっていた。「私のこれからの生活は、あなたが心配することじゃないわ。 離婚協議書はすぐに用意するから、サインしてちょうだい」
天陽は不快そうに眉をひそめ、口を開こうとしたが、その時突然、彼のスマートフォンが鳴った。
画面を一瞥すると、すぐに眉間のしわを緩めて電話に出た。「もしもし、葵桜?」
電話の向こうから、甘ったるい、泣き出しそうな声が聞こえてきた。「天陽、お腹がすごく痛いの……。天陽、ちょっと来てくれない? 私、すごく怖くて……」
天陽の顔色が一変した。「動くな、すぐに行く」
電話を切るなり、彼は慌ただしい口調で言った。「ちょっと出かけなきゃならなくなった。何かあるなら、俺が帰ってきてからにしよう」
数秒後、玄関のドアがバタンと閉まる音が響いた。
振り返ることも、一瞥をくれることもなかった。
続いて、外でエンジンがかかり、車の音が次第に遠ざかっていった。
柚衣は指の関節が白くなるほど、階段の手すりをぎゅっと握りしめた。
離婚を切り出しても、引き留める言葉1つなく、背を向けて別の女の元へと飛んで行ったのだ。
結局、天陽はその夜帰ってこなかった。
翌朝早く、柚衣は署名済みの離婚協議書を残し、スーツケースを引いて別荘を出た。
体の傷はまだかすかに痛んでいたが、彼女は歯を食いしばり、一歩、また一歩と松原家の門を出た。
門を出た途端、スマートフォンが震えた。
電話に出ると、親友の小栗明心の声だった。
「柚衣、本当に復帰を決めたの? 松原天陽のクズ男め、あんたの真心がもったいないわ」
明心はこの数日間海外出張に出ていたが、柚衣のことを知るなり、今すぐにでも飛んで帰ってきたいと息巻いていた。
「あいつ、あんたがどれだけ尽くしたか分かってるの?あの年、 あいつの技術会社でコアシステムが行き詰まって倒産しかけた時、コンピューターの天才であるあんたが独自の特許をライセンスして起死回生させたからこそ、今の松原グループがあるんじゃない!」
「それに、あいつが解決できない難題を、あんたがこっそり片付けてあげたことも何度もあったわよね。 あんなに尽くしたのに、1銭の報酬も求めたことがないなんて。あいつの良心は犬に食われたのよ、恩知らずめ!」
明心は考えれば考えるほど腹が立ってきた。「柚衣、こんな結婚、絶対に離婚すべきよ!」
「ええ、明心、安心して。協議書はもう準備したし、決意が変わることはないわ。 それに、私のものは必ず取り戻す。絶対にあいつらの思い通りにはさせない」 柚衣の瞳には、かつてないほどの決意が宿っていた。
「ただのお飾り妻」というのは、かりそめの姿に過ぎない。
柚衣が本当に愛しているのは、コードを書き、AIを研究し、ゲームを開発することなのだ。
18歳の時、柚衣はすでに国際KINGアライアンスのコアメンバーだった。
ただ天陽に嫁いでから、柚衣はすべての鋭さを隠し、良き妻として家庭を守ることに専念していたのだ。
思考を引き戻し、柚衣はまた口を開いた。「そういえば明心、前にあなたが言っていたわよね。ある大物が、私の開発したあのゲームをずっと買いたがっているって?」
「そうよ、でもあなたは……」
「売ってもいいわ」
明心は一瞬呆然としたが、すぐに状況を理解し、驚きと喜びの混じった声を上げた。「柚衣、ついに吹っ切れたのね?」
柚衣は3年間住み続けたその別荘を振り返り、静かに見つめた。
「ええ、吹っ切れたわ」
「私のものは、1つ残らず取り戻してみせる」
「彼が私に借りているものも含めて、すべてをね」
章一覧
全11章
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