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第2章 勝ち誇る幼馴染と潔癖の嘘

床に座り込んだまま、どれほどの時間が経ったのだろう。カーテンの隙間から白々とした朝の光が差し込み始めた頃、凛々子はようやく重い体を起こした。長時間同じ姿勢でいたせいで両足がひどく痺れ、デスクの縁に手をついてどうにか立ち上がる。

サブルームの奥にある洗面所へ向かい、鏡の前に立った。そこには血の気を失ってやつれた顔と、首筋にうっすらと残る赤い指の跡が映っている。凛々子は自嘲するように、唇の端をかすかに持ち上げた。

シャワーを浴びて冷たい水で顔を洗い、クローゼットから飾り気のないグレーのスーツを取り出して袖を通す。長い黒髪を後ろで一筋の乱れもなくきっちりとまとめ上げ、隙のない冷たい殻で身を固めてから、部屋のドアを開けた。

階段を下りて一階のダイニングへ入ると、長いテーブルの上座に康平が腰掛けていた。使用人が緊張した面持ちで、その右手側に淹れたてのブラックコーヒーを置いている。

完璧に仕立てられたオーダーメイドのスーツを着こなした康平は、凛々子の足音が近づいても視線すら上げなかった。

「お前の動きはいつも遅くて苛つく」

凛々子は彼から最も離れた末席の椅子を引き、感情の読めない平坦な声で返した。

「目障りでしたら、いつでも離婚届を出していただいて構いません」

コーヒーカップの取っ手を握る康平の指にぐっと力が入り、関節が白く浮き出た。氷のような視線で妻を睨みつける。

「勝手にしろとでも言うと思ったか。思い通りになどさせるものか」

その言葉が終わるか終わらないかのうちに、玄関から電子錠の解除音が軽快に響いた。

直後、鼻につくほど甘い香水の匂いがダイニングまで漂い、高いヒールの音を遠慮なく響かせながら心乃が姿を现した。我が物顔で歩み寄ってきた彼女は凛々子に目もくれず、康平の隣の椅子をごく自然に引いて腰を下ろす。

「康平お兄ちゃん、おはよう。昨日ここに忘れちゃった書類、取りに来たの。私たち、幼馴染みの『兄弟』みたいなものなんだから、朝から押しかけても奥様は気にしないわよね?」

凛々子の手がかすかに止まり、ナイフの刃先が磁器の皿を擦って甲高い音を立てた。

心乃はわざとらしく凛々子へ視線を向け、口元に手を当てて鈴を転がすように笑った。

「あら、凛々子さんもいたのね。昨夜はてっきり、腹を立ててご実家に帰られたものだとばかり思っていたわ」

凛々子は返事もせず、ただ視線を落として皿の上の目玉焼きを一口大に切り分けた。まるで隣で喋る女など、初めから存在しないかのような振る舞いだった。

完全に無視された心乃はわずかに口元を歪め、さらに大胆な行動に出た。「ねえ、お兄ちゃん」と甘えた声を出して彼の腕に胸を押し当てようとしたのだ。

しかし、康平は氷のように冷たい目で心乃を一瞥すると、彼女が触れる直前にサッと身を引き、明確な拒絶の態度を示した。彼は他の女に触れられることを本能的に嫌悪している。だが、彼の視線は常に、末席に座る凛々子の反応を窺うように向けられていた。

しかし、悲しみの淵に沈み切っている凛々子は、視線を落としたまま彼のその動きに全く気づいていなかった。

空振りした心乃は誤魔化すように、康平の手元に置かれていたブラックコーヒーに手を伸ばし、そのままカップを持ち上げた。

「康平お兄ちゃん、このコーヒーすごく苦いじゃない。よくこんなもの飲めるわね」

心乃は康平が口をつけたのと同じ縁にわざと唇を当て、小さくひと口すすってから、凛々子に向かって勝ち誇ったように顎を上げてみせた。

凛々子は手にしていたナイフとフォークを静かに皿の上に揃え、ナプキンでそっと口元を押さえた。

「ごゆっくりどうぞ。私は先に研究所へ向かいますので」

椅子を引いて立ち上がり、一度も振り返ることなくダイニングを後にする。

玄関ホールで靴を履こうとしたその時、背後のダイニングから陶器が床に叩きつけられる鋭い破壊音が響いた。

「篠田、誰の許可を得て俺の物に手をつけた」

「でも……昔はそんなこと、一度だって気にしなかったじゃない」

「それは昔の話だ。そのカップを今すぐ捨てろ。食器もすべて新しいものに入れ替えろ。それから、ダイニング全体を徹底的にアルコール消毒しろ」

地を這うような康平の冷酷な怒号と、それに続く心乃の悲鳴じみたうろたえ声が、玄関にいる凛々子の耳にもはっきりと届いた。背筋をかすかに強張らせながらも、すぐに唇を固く引き結び、重い玄関扉を開けて外へと踏み出す。

初秋の冷たい風が薄手のジャケットを通り抜け、肌を刺す。凛々子は深く息を吸い込み、目の奥にこみ上げてきた熱い痛みを、胸の底へと無理やり押し込めた。

地下鉄を乗り継ぎ、都心から少し外れた場所にある創薬研究所へ向かう。古びた雑居ビルの外壁には、枯れかけたツタがびっしりと絡みついていた。

階段を上がって研究室のドアを開けると、待ち構えていたマネージャーの岩田江里子が、督促状の束を手に駆け寄ってきた。大学時代から苦楽を共にしてきた頼もしい相棒の顔には、深い疲労が刻まれている。

「凛々子、来月の家賃をこれ以上滞納したら、ビルのオーナーから強制退去させられちゃうわよ」

凛々子は督促状の束を受け取り、眉間に影を落とした。

「分かっているわ。お金のことは、私がなんとか工面する。研究員たちの給料と、高額な試薬の代金……どうしても今週中に一千万は用意しなきゃいけないの」

江里子は大きく息を吐き、周囲の研究員に聞こえないよう声を潜めた。

「樋口グループにはあんなに潤沢な資金があるのに、どうして旦那さんに助けを求めないの?」

凛々子は力なく口元を緩めた。

「あの人は重度の潔癖症なの。身体的なものだけじゃなく、精神的にもね。私のことなんて心底嫌悪しているのに、助けてくれるはずがないでしょう」

結婚してからの二年間が脳裏をよぎる。康平は当初から寝室を別にしただけでなく、凛々子がうっかり触れたグラスさえ、その場で使用人に命じてゴミ箱へ捨てさせていた。さっき玄関で聞いたカップを叩き割る音も、自分や他人が触れたことに対する激しい拒絶の表れに違いなかった。

クリーンルームに入った凛々子は、白衣に身を包み、顕微鏡の下に置いた培養皿へと意識を集中させた。

今月末までに、この希少疾患の特効薬に関する基礎データを何としても完成させなければならない。それだけが、この行き詰まった状況を覆すための唯一の武器だった。

正午を回った頃、白衣のポケットに入れていたスマートフォンが激しく震えた。取り出して画面を見ると、登録のない見知らぬ番号が表示されている。

通話ボタンを押して耳に当てると、受話口から年老いた男の焦りきった声が飛び込んできた。

『もしもし、凛々子奥様ですか?! 長野の本家の大旦那様が……もう危篤状態なのです!』

凛々子の手が激しく震え、持っていた培養皿が指先から滑り落ちそうになった。康平の祖父である大旦那様は、冷え切った樋口家の中で、唯一彼女に穏やかな笑顔を向けてくれた恩人だった。

作業台に培養皿を戻すなり、白衣を脱ぎ捨ててバッグを掴み、研究室を飛び出す。廊下の曲がり角で試薬のトレイを運んでいた江里子とぶつかりそうになりながらも、足音を響かせて階段を駆け下りていった。

(大旦那様に、最後に一目だけでも会わなければ……!)