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第3章 深夜の追放と訃報の鐘
研究所のビルから大通りへと飛び出した凛々子は、通りかかった空車のタクシーに手を挙げ、滑り込むように乗り込んだ。
後部座席に深く腰を下ろしても、窓の外に連なる渋滞ばかりが目に入り、焦りから呼吸が浅くなる。トレンチコートの裾を両手で強く握りしめ、爪が布地越しに掌へ食い込むのも構わず、何度もスマートフォンの画面を確認した。
ようやくタクシーが樋口邸の門前に滑り込むと、凛々子は運転手に紙幣を押しつけ、釣り銭も受け取らずに車を飛び出して玄関へと走った。
重い扉を押し開けた瞬間、目の前の異様な光景に足が止まった。
康平の特別秘書である高橋が玄関ホールに立ち、使用人たちに指示を出して、海外の高級ブランドのロゴが入ったスーツケースを次々と外へ運び出させていたのだ。
凛々子が息を呑んで立ち尽くしていると、高橋の背後、階段の下で心乃が顔をくしゃくしゃにして泣き崩れているのが見えた。
本家の長老から『心乃ちゃんも小さい頃から大旦那様に可愛がられていたから、孫のようなものだ。一緒に連れてきなさい』と指示があったらしく、彼女はちゃっかりと身内の顔をして居座っていたのだ。
吹き抜けになった二階の廊下には康平が立ち、手すりに手をかけ心乃を見下ろしている。その冷酷な眼差しは、まるで道端のゴミでも見ているかのようだった。
「出て行け。二度と同じことを言わせるな」
心乃は階段の手すりにしがみつき、必死に声を張り上げた。
「康平お兄ちゃん、外はこんなに寒いのに私を追い出すなんてあんまりよ! お祖父様が亡くなって、私、悲しくて立っていられないのに……っ!」
心乃はそう叫ぶと、わざとらしく目を閉じ、そのまま糸が切れたように康平の胸へと倒れ込んだ。
「心乃!」
長老たちの目がある手前、康平は倒れ込む彼女を冷たく突き飛ばすことができず、ひどく眉をひそめながらもその身体を抱きとめ、仕方なく屋敷の中のソファへと運んでいった。その光景が、玄関に立つ凛々子の胸を鋭く抉る。
高橋が心乃の脇へ歩み寄り、事務的な低い声で告げた。
「篠田様、社長の忍耐にも限度がございます。これ以上私どもを困らせないでください」
康平が冷淡に片手を振る。
控えていた二人の屈強なボディガードが即座に前へ出て、心乃の両腕を左右から強く掴み上げると、玄関の扉へ向かって引きずり始めた。
「やめて! 離してよ!」
心乃は金切り声を上げて足をばたつかせたが、玄関に立つ凛々子の横を通り過ぎる際、血走った目で激しく睨みつけてきた。そのまま容赦なく門の外へと放り出され、使用人たちがスーツケースを外へと並べる。
重厚な玄関扉が閉められると、外で泣き叫ぶ心乃の声は完全に遮断され、屋敷の中には耳が痛くなるほどの静寂が戻った。
康平がゆっくりと階段を下りてくる。その視線が、玄関先で肩を揺らし息を整える凛々子にとまった。
「どうしてこんな時間に帰ってきた」
凛々子は乱れた呼吸を落ち着かせようと深く息を吸い込み、かすかに震える声で告げた。
「さっき本家から電話がありました。お祖父様が……もう危ないそうです」
康平の瞳がわずかに見開かれ、全身にまとっていた刺すような冷気が一瞬で凍りついた。すぐに内ポケットからスマートフォンを取り出し、本家の主治医へ発信する。
凛々子は張り詰めた彼の横顔を見つめ、何かを言いかけようとして唇を開いた。だが、研究所の家賃が払えず閉鎖の危機にあることなど、とても言い出せる空気ではなかった。その言葉をそっと喉の奥へと飲み込む。
短い通話を終えた康平の声は、地の底から響くように低く沈んでいた。
「部屋へ行って荷物をまとめろ。今すぐ長野の本家へ向かう」
凛々子は小さくうなずき、踵を返して階段を上がった。サブルームへ戻ると、黒の喪服と最低限の着替えを小さなボストンバッグに詰め込む。
時刻はすでに深夜を回っていた。バッグを手に部屋の扉を開けると、向かいの主寝室から出てきた康平と鉢合わせになった。
康平は漆黒のスーツを身に纏い、黒いネクタイをわずかな緩みもなく締めていた。端正な顔立ちの眉間には、鉛のように重い影が落ちている。
ふと、康平の右手の指先が小刻みに震えているのが目に入った。感情を極限まで押し殺しているときにだけ現れる、彼の身体の反応だった。
凛々子は考えるよりも先に右手を伸ばし、その震える手の甲に触れようとして――あと一センチで届くというところで、はっと我に返り、空中で手を止めた。
康平はそのかすかな気配に気づいたように視線を落とす。宙に浮いたままの白く細い手を見つめ、その喉仏がごくりと上下に動いた。
次の瞬間、康平の手が伸び、凛々子の手を強い力で握りしめた。
掌から伝わる体温は驚くほど高く、火傷しそうな熱さに、凛々子は思わず息をのんだ。
「樋口さん、痛いです」
手を引こうとしても、康平は指の力を緩めない。それどころかぐっと腕を引いて彼女を半歩引き寄せると、静まり返った廊下に、ひどく掠れた低い声を落とした。
「向こうに着いたら、俺のそばを離れるな。勝手に動き回るなよ」
本家の人間は凛々子を目の敵にしている。自分のそばにいなければ、何をされるか分からない――康平は不器用にも心からの心配を口にしたつもりだった。だが、そのあまりにも冷たく響く口調のせいで、凛々子には全く別の意味に聞こえていた。
どうせ余計なトラブルを起こして、自分の恥を晒すなという意味なのだろうと、彼女は冷え切った心で受け取ってしまう。
熱い吐息が耳たぶをかすめ、かすかな煙草の香りが鼻腔をくすぐる。自分の意思に反して、心臓がどくりと大きく跳ねた。
胸のざわめきを振り払うように、凛々子は力を込めてその手を振りほどいた。半歩後ろへ下がり、明確な距離を置く。
「ご心配なく。妻としての務めは、きちんと果たします」
康平の瞳の奥に宿っていた微かな光がすっと消え、冷たい闇へと戻った。彼は感情を消し去ると、背を向けて大股で階段を下りていった。
二人は距離を保ったまま屋敷を出て、待機していた黒のマイバッハに乗り込んだ。
息が詰まるほど重苦しい空気が車内を満たす。凛々子は康平のいる後部座席を避け、助手席に乗り込むと、ドアに体を寄せるようにして座った。窓の外では、東京の街灯が光の帯となって後方へと流れていく。
運転手は首都高速へと車を進め、長野県にある樋口家の本家を目指して深夜のハイウェイを疾走した。
午前三時を回る頃には、タイヤがアスファルトを擦る低いロードノイズだけが車内に単調に響いていた。
連日の睡眠不足と、張り詰めていた緊張の糸が緩んだせいだろう。凛々子は耐えがたい眠気に襲われ、抗えなくなっていた。重くなった瞼を閉じると、こくりこくりと頭が揺れ、助手席の窓ガラスに当たって鈍い音を立てる。
後部座席の康平がわずかに顔を上げ、ルームミラー越しに彼女の疲れきった寝顔を見つめた。冷たい瞳の奥に、隠しきれない痛ましさが一瞬だけよぎる。
康平は身を乗り出してエアコンの温度を上げると、羽織っていたスーツのジャケットを静かに脱いだ。前の座席へとそっと手を伸ばし、凛々子の細い肩へ優しく掛ける。
その指先が離れた直後、康平の手元のスマートフォンが短く震えた。
暗い車内で浮かび上がった画面には、本家の執事からの短い文面が表示されていた。
『大旦那様が午前二時四十五分に永眠されました』
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