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寧々はスーツケースを手に玄関まで歩き、重厚なドアに手をかけた。その時、落ち着いた男の声が彼女を呼び止めた。 「待ちたまえ」 振り返ると、そこに立っていたのは藤田潤臣の大叔父、藤田継彦だった。彼は杖を突き、執事を伴って離れの部屋から出てきたところだった。離れから出てきたが、リビングでのやりとりは聞こえていた。 継彦は、藤田グループの創業者であり潤臣の祖父であった故・藤田宗一郎の実弟だ。そして、この家で唯一、寧々が持つ「何か特別なもの」に気づいていた人物でもあった。 そもそも、周囲の反対を押し切って、潤臣に寧々と結婚するよう強く勧めたのは、宗一郎その人だった。 「大叔父様」 潤臣は継彦の姿を認めると、顔に苛立ちを浮かべながらも、表面上は恭しく声をかけた。 継彦の視線は、潤臣を通り越し、寧々の上で止まった。まるで生まれ変わったかのような彼女の姿に、彼の瞳に驚きがよぎる。——いや、これは演技ではない。彼女は本気で変わったのだ。 「潤臣。お前は、本気で決めたのか?お前の祖父が、なぜあの時……」 継彦が重々しく口を開いたが、潤臣はそれを遮った。 「大叔父上、時代は変わったんです。藤田家に、何の背景もない女は必要ありません」 「そうですわ、お義兄様」 貴子が横から口を挟み、火に油を注ぐ。 「今の潤臣は、グループを救った英雄です。彼には、もっと相応しい相手がおりますのよ」 「そうですよ、大叔父様。時代は変わったんです」 清香も得意げに付け加えた。 継彦は、潤臣と貴子を交互に見つめ、静かに問いかけた。 「本当にそうか?」 その一言は、重く、短かった。潤臣の眉が、わずかに動いた。 その間、寧々は一言も発さなかった。まるで、自分とは無関係な他人事を聞いているかのように、ただ静かにそこに立っている。 その超然とした態度が、かえって継彦の注意を引いた。 「お嬢さん」 継彦は寧々に向き直った。 「君は、本当にこのまま去ることに納得しているのかね?」 彼は、寧々が少なくとも泣いたり、何かを訴えたりするだろうと思っていた。 寧々は、記憶の中の「彼女」に唯一、わずかな善意を見せてくれたこの年長者を見つめ、静かに一度だけ頷いた。 そして、彼女は誰もが予想しない行動に出た。 そのまま玄関を出ていくのではなく、くるりと踵を返し、リビングのローテーブルへと歩み寄ったのだ。 テーブルの上には、先ほど潤臣が投げ捨てた、署名済みの離婚届が置かれている。 寧々はそれを拾い上げると、潤臣の前に立った。 潤臣は、彼女が土壇場で後悔し、復縁を懇願するのだと思った。彼女が泣きついてくる姿が目に浮かんだ。「やはりな」という嘲りが彼の顔に浮かび、何か言おうと口を開きかけた。彼女はまだ僕を引き止めようとしているに違いない。そう考えた。 その瞬間だった。 パンッ! 乾いた音がリビングに響き渡った。寧々が、その離婚届を潤臣の胸に叩きつけたのだ。 無駄のない、決然とした動きだった。 リビングは、水を打ったように静まり返った。貴子と清香は、口をあんぐりと開けて固まっている。 潤臣は、胸に当たって床に落ちた紙切れと、目の前の寧々とを、信じられないという顔で交互に見た。まさか、本当にサインをするとは思わなかった。二度も。彼女が本当にこの家を出るとは、一瞬たりとも考えたことがなかった。 この女が?いつも自分に従順で、声を荒らげることすらできなかったこの女が、離婚届を自分に「叩きつけた」? 寧々は、潤臣の衝撃に揺れる瞳をまっすぐに見据え、一言一言、はっきりと告げた。 「藤田潤臣さん。あなたを捨てたのは、私のほうです」 彼女は一呼吸おいて、言葉を続けた。 「それから、私がこの家を出ることで、あなたはこれからも『若き経営の奇才』のままでいられる。感謝すべきだわ」 言い終えると、彼女はもう誰の顔も見なかった。振り返り、今度こそ玄関へと大股で歩いていく。 もう、誰も彼女を止めようとはしなかった。 床を打つヒールの音が、やけに大きく響く。その一歩一歩が、藤田家の人間たちの心臓を直接踏みつけているかのようだった。 ドアが開き、そして、強く閉められた。 リビングに残された潤臣の顔は、驚愕から、やがて屈辱に染まった土気色へと変わっていた。怒りで、胸が激しく上下している。 彼は、寧々の最後の言葉を、捨てられた女の負け惜しみか、狂気に駆られた呪いの言葉だと解釈した。 「あの女……何を企んでいるのかしら。絶対にまた何か仕掛けてくるわ」 貴子が、ようやく絞り出すように言った。 ただ一人、継彦だけが、固く閉ざされたドアを見つめながら、その濁った瞳に、深い憂慮と疑念の色を浮かべていた。 宗一郎は言っていた。この娘の才能は、藤田家の未来そのものだと。そして今、その未来が、自らこの家を去っていった。 彼は、誰にともなく、低く呟いた。 「……後悔するなよ、潤臣」

現在読めるのはここまでです。

読み進めると物語が続きます。

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  1. 第1章第1章
  2. 第2章第2章
  3. 第3章第3章

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