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一時間も前に、内藤星乃は子どもを連れて別荘に戻っていた。

彼女が戻ったのは、他でもない。 自分の荷物を持ち出すためだった。

まだ正式に離婚はしていないものの、伊達征司が自らの手で彼女を刑務所に送ったあの日から、二人の結婚生活に続ける意味などなくなっていた。

「奥、奥様……?」

別荘の使用人である井上清子は、内藤星乃の姿を見て一瞬、誰だか分からなかった。 だが、その顔をはっきりと認めると、おずおずと口を開いた。 その声は震え、すぐに瞳が潤んだ。

「どうしてこんなお姿に……」

かつての星乃は、華やかで自信に満ち、その一挙手一投足には名家の令嬢としての優雅さと気品が溢れていた。

しかし今の彼女は、ごく普通の灰色のジャケットに身を包み、ジーンズさえも色褪せていた。

かつては精緻だった顔立ちは、栄養失調のせいで青白く、目の下は深く窪み、肌も生気を失っていた。

かつて輝いていた瞳には、今では尽きることのない疲労と絶望の色しか宿っていない。

「井上さん」

かつての知り合いを前に、星乃は口元を引きつらせて微笑んだ。 相手の気遣わしげな視線を受け止めると、彼女の目はじんわりと熱くなった。

刑務所を出たら、あそこで味わった苦しみや痛みを忘れられると思っていた。 困難を恐れたことはない。 ただ、他人からの純粋な気遣いに触れると、やはり心が崩れそうになる。

「あうー……」

母親の落ち込んだ感情を察したのか、腕の中の美花が小さな声でうめいた。 その柔らかく、どこか幼さを残した声に、星乃は我に返った。 無理やり涙をこらえ、優しくあやす。

「いい子ね、ママは大丈夫よ」

「これは……」

井上はそこで初めて、星乃が抱いている子どもに気づいた。 かつて心から世話をしてくれた彼女に対し、星乃は隠し事をすべきではないと思った。 だが、もし征司に知られれば、余計な騒ぎになるかもしれない。

彼女は唇をきつく結び、乾いた声で尋ねた。

「彼は?」

井上は子どもを見て、一瞬戸惑ったが、すぐに星乃が征司の居場所を尋ねているのだと気づき、慌てて答えた。

「あの件があってから、旦那様は別荘にお戻りになっていません。 たとえお戻りになっても、一時間も経たずにまた出て行かれます。 今は私一人で日常の掃除をしています」

「でも、もう大丈夫です。 奥様がお戻りになったのですから。 奥様のお部屋の布団も干しておきました。 ふかふかですよ」

井上は目元の涙を拭い、微笑んで星乃を部屋へ案内しようとした。

星乃の心に感動が込み上げたが、それでも口を開いた。

「井上さん、ありがとう。 でも、今日は家に帰るわけじゃないの。 自分の荷物を取りに来ただけ」

腕の中の美花を見つめ、心が柔らかくなるのを感じた。 かつての彼女はかなりの貯蓄があった。 征司と別れたとしても、娘を立派に育てられる。 たとえ美花に完全な家庭を与えられなくても、この子を全力で守り抜くつもりだった。

「奥様、そんな……」

彼女が出て行くと聞いて、井上は戸惑い、その場に立ち尽くした。 瞳には名残惜しさと引き留めたい気持ちが浮かんでいる。

星乃は部屋の入り口に立ち、自分の部屋を見つめた。 すべてが以前のままだ。 化粧台の上には、あの指輪さえも静かに置かれている。

彼女は三年間暮らした場所をぐるりと見回し、最後に引き出しから自分の身分証明書と銀行カードを取り出した。

引き出しの中にある征司との結婚証明書を見つめ、唇を噛む。

「あの夜、彼と離婚するつもりだった。 私の心の中では、とっくに他人同然だったから」

伊達家から与えられたもの、宝飾品から高級な服、ブランドバッグや携帯電話に至るまで、彼女は何も手にしなかった。 ただ、自分のものだけを持ち出した。

「どうしてそこまでなさるのですか。 旦那様は実は……」

「井上さん――」

星乃は井上の言葉を遮った。 征司のことなど、一言も聞きたくなかった。

「この三年間、お世話になりました。 今はただ、子どもと静かに暮らしたい。 誰にも邪魔されずに」

その言葉には真実がこもっていた。 井上は彼女を見つめ、それから美花に目をやり、最後にため息をつくしかなかった。

「ブー、ブー」

階下から車の音が聞こえてきた。 星乃の表情が瞬時に変わる。 こんな時間に別荘に入ってくる車は、征司のもの以外に考えられない。 彼女は他のことを考える余裕もなく、子どもを抱きしめて慌てて逃げようとした。

星乃が征司と顔を合わせたくないことを察し、井上は彼女の手首を引いた。 二人は別の方角から階下へ降り、庭の裏口へと向かう。

「ここからなら、旦那様には気づかれません」

二人が別れれば、もう二度と会う機会はないかもしれない。 星乃の痩せ細った姿を見て、井上は涙を拭いながら言い聞かせた。

「奥様、ご安心ください。 私は誰にも奥様のことを話しません。 どうか、ご自身を大切になさってください」

星乃も瞳を潤ませた。 井上と別れるのはとても辛かったが、これ以上ためらえば、逃げられなくなる。

彼女は唇を噛みしめ、子どもを抱きしめて、振り返ることなくその場を去った。

彼女が去った直後、征司が冷気をまとわせて部屋のドアを開けた。 しかし、部屋に星乃の姿はどこにもない。

目の前の掃き出し窓が開け放たれ、窓の外から吹き込む秋風が、星乃の残した気配をかき消し、純白のカーテンを揺らした。 まるで、一歩遅れた彼を嘲笑うかのように。

征司の全身からは冷たいオーラが放たれ、その無機質な瞳の奥には、怒りの炎が静かに燃えていた。

「旦那様、監視カメラに不具合があるようです」

彼の後ろに控えていたアシスタントの工藤陽翔が、別荘内の監視カメラの映像を呼び出していた。 征司は冷ややかに一瞥する。 監視カメラの映像は稚拙に改ざんされており、彼を愚か者扱いしているかのようだった。

「井上さん」

彼の視線が変わり、その威圧感はさらに冷酷なものになった。

「だ、旦那様、何かご用でしょうか?」

征司の声を聞き、

「彼女はどこだ?」

明らかに動揺している井上を見て、彼の視線はさらに冷たくなる。 しかし、井上は星乃との約束を思い出し、うつむいてとぼけるしかなかった。

「旦那様、 一体どなたのことをおっしゃっているのですか? 彼女とは?」

「井上さん、奥様の肩を持つのはやめておきなさい。 あなたの娘さん一家が安定した仕事に就けているのは、旦那様のおかげでしょう。 どちらの味方につくべきか、私が改めて言う必要はないはずだ」

陽翔の口調には、かすかな脅しが含まれていた。

この井上は本当に耄碌したのか。 旦那様が不機嫌になっていることにも気づかないのか。

「わ、私は……」

井上は恐怖に震え、心は葛藤と板挟みで引き裂かれそうだった。

「話します!」

陽翔が人事部に電話をかけようとしているのを見て、井上は足の力が抜け、その場に崩れ落ちた。 全身を震わせながら叫ぶ。

「何でも話しますから、娘をクビにしないでください……」

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読み進めると物語が続きます。

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章一覧

全102章

  1. 第1章第1章 刑期満了で出所
  2. 第2章第2章 彼と縁を切る
  3. 第3章第3章 非情な心

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