/0/25980/coverbig.jpg)
第2章 他人のふりと罰ゲームの酒
「さあさあ、みんな座って! 料理が運ばれてきたから、温かいうちにいただこう!」
光一の低く冷たい声に促されるように、一登が慌てて手を叩いて場の空気を取り繕った。結葉は莉乃の隣、末席に静かに腰を下ろす。酒で湿ったジャケットが胸元に張りつき、極度の緊張から、テーブルの下に隠した膝が小刻みに震え続けていた。
一登は険悪になった雰囲気を和らげようと、自ら立ち上がって光一のグラスに純米大吟醸を注ぐ。
「藤代チーフ、今夜はぜひ心ゆくまで飲んでいってください」
そう言って愛想笑いを浮かべた。
蘭紗もすかさず光一のすぐ隣に体を寄せて座り、豪華な刺身の盛り合わせを彼の前に押しやる。
「光一お兄様、ネギがお嫌いでしょう? 私、料理長に言って全部抜いてもらったのよ」
光一は返事すら返さない。その黒い瞳は、長いテーブルの向こう側で黙って温かい麦茶をすする結葉の姿を、冷たく射抜いていた。
「古林さん、他に何か追加したい料理はあるかな?」
一登がメニューを手に、結葉のほうへ身を乗り出して差し出す。
結葉がそれを受け取ろうと手を伸ばした、ちょうどそのときだった。光一がテーブルの中央にある徳利を取ろうと腕を伸ばし、ふたりの指先がかすかに触れ合う。
火に触れたかのように、結葉は咄嗟に手を引っ込めた。指先を小さく丸めて膝の上に隠し、視線を落とす。
「結構です、ありがとうございます。私は何でも構いませんから」
「しかし藤代チーフ、古林さんとは本当にこれまで面識がなかったんですか? お互い横浜にも関わりがあるなら、どこかで顔を合わせていそうなものですが」
一登が酒の勢いを借りて、無邪気にそんな冗談を飛ばした。
光一は背もたれに深く体を預け、何の温度も感じさせない瞳を結葉に向ける。
「知らないな。俺がどうして、そんな人間を知っていると思うんだ」
湯呑みを握る結葉の指の関節が、白く浮き上がった。胸の奥を握り潰されるような痛みを必死に抑え、苦い麦茶を喉の奥へ流し込む。
何度か杯が交わされたあと、商社の若手社員が「せっかくのお祝いの席ですし、王様ゲームでもして盛り上がりましょうよ!」と提案し、一登もすぐに手を叩いて賛成した。
割り箸で作られたくじが配られ、結果が発表される。後輩が王様の箸を高く掲げ、興奮した声を上げた。
「2番と5番! ルール通り、2番の人がみんなの前で5番の人の頬にキスをするか、あるいはウイスキーを3杯一気飲みする罰ゲームです!」
「まあ、私だわ」
蘭紗が頬を赤らめて2番の箸を見せびらかした。そして、彼女の隣に座る光一の指先には、5番と書かれた箸が握られていた。
蘭紗は恥ずかしそうに目を閉じて顔を上げ、甘えるように唇を突き出す。
「光一お兄様、ただのゲームよ。みんなが見ているわ」
個室の中は、一気に男たちの囃し立てる声で沸き返った。一登たちも手を叩きながら、財閥の御曹司と令嬢の華やかなキスシーンを期待して見守っている。
結葉はテーブルの下で、スカートの裾を強く握りしめた。爪が手のひらに食い込むのも構わず、自らを罰するかのように、目の前の光景から目を逸らさなかった。
しかし、光一の瞳には微塵の笑みも浮かんでいない。隣で目を閉じている蘭紗のほうを一瞥すらすることなく、長い腕を伸ばしてテーブルの上のウイスキーのボトルを直接掴む。
「罰ゲームを選ぶ」
低く冷え切った声が落ちるなり、光一はウイスキーをストレートで3杯、立て続けに煽った。喉仏が激しく上下し、空になったグラスがテーブルに強く叩きつけられて鈍い音を立てる。
顔を上げたまま固まっていた蘭紗の笑顔が、見る間に引きつって崩れ落ちた。唇をきつく噛みしめ、悔しさと屈辱で顔を真っ赤に染めている。
莉乃がテーブルの下で結葉の冷たい手を握り、耳元に顔を寄せて「いい気味ね、自業自得だわ」と小さく囁いた。
結葉は笑えなかった。光一がグラスを置いたとき、その手の甲に力が入りすぎて、青い血管が浮き出ているのがはっきりと見えたからだ。
気まずい空気を吹き飛ばすように次のくじ引きが始まり、一登が箱を振って大声を上げた。
「よし、次は7番の古林さんだ! 罰ゲームは……真実の質問コーナー!」
蘭紗がまるで救いの綱でも掴んだかのように、すぐさま身を乗り出して質問権を奪い取った。憎しみに満ちた目で結葉を睨みつける。
「私が質問するわ!」
「坂東さん、いい加減にしなさいよ!」
莉乃がすぐに立ち上がって遮ろうとしたが、結葉は深く息を吸い込み、莉乃の腕をそっと押さえて止めた。そして、蘭紗の視線を真正面から受け止める。
「どうぞ、聞いてください」
蘭紗は腕を組んで背もたれに寄りかかり、顎を高く上げて冷たい笑みを浮かべた。
「古林さん、昔、お金のために恋人を捨てたそうだけど――この5年間、夜中に目が覚めたときに、ただの1秒でも後悔したことはあるのかしら?」
個室の空気が再び凍りつき、全員の視線が一斉に結葉の顔に突き刺さった。
薄暗い照明の影になる上座で、光一の切れ長の瞳が結葉を逃がさないように捕らえていた。その指先に握られた金属製のライターが、軋むほど強く握りしめられている。
章一覧
全10章
/0/27352/coverbig.jpg)
/0/22608/coverbig.jpg)
/0/24652/coverbig.jpg)
/0/24459/coverbig.jpg)
/0/20774/coverbig.jpg)
/0/24153/coverbig.jpg)
/0/27374/coverbig.jpg)
/0/27341/coverbig.jpg)
/0/27339/coverbig.jpg)
/0/27338/coverbig.jpg)
/0/27142/coverbig.jpg)
/0/27337/coverbig.jpg)